♪春日八郎アーカイヴ♪

>略年表2

1924
T13
(0歳)
10月9日、福島県河沼郡坂下町塔寺で生まれる。本名渡部実。父は渡部鬼佐久、母は豊岡キヨ。妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉六人、異父兄姉四が人いた。

*'72年に出版の自伝『どしゃ降り人生』、'81年に出版の同じく自伝、『ふたりの坂道』によれば「俗に言う五反百姓」で、鬼佐久は農業をキヨにまかせて蕎麦打ち行商。キヨは小学校で週二、三度裁縫を教え、夜は賃仕事の仕立物に精出して家計を助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んだという。
*福島県ホームページの記載によれば父は蕎麦打ち名人、母は当地の花嫁衣装を一手に引き受けるほどの和裁の名手でもあった。
1930
S5

(6歳)
八幡村立八幡尋常小学校に入学。
この時期は本人の記憶によれば「うたのうの字も知らない」(サンケイ新聞'74のインタビュー「小さな伝承」)状態で、人から「うまいといってほめてもらった記憶もない」(自伝)。
この頃、村に時折来る旅芸人の少年たちに憧れ、太神楽の一座に入ることを夢見るが、母の反対にあって断念。


←尋常小学校時代
記の自伝によれば、機械作りの好きな理系少年で「そのころでは、ごくありきたりの腕白坊主」(ただし当時の校友の言によれば「たいへんな腕白」)。
1937
S12
(13歳)
会津中学(現・会津高校)に入学。片道1時間をかけての汽車通学中、エクボの目立つ少年として女学生たちの注目の的に。
1938
S13
(14歳)
在学中に町で見た『愛染かつら』の主題歌(『旅の夜風』♪)が「えらく流行っている」のを知り、ラジオでも聞き覚えて口ずさんだところ、父に叱責されるが、こりずに学校で広めて仲間と大合唱。ただし歌に関してはそれ以外は「相変わらず、これといった話題もない」ままに過ぎ去る。
秋、狭心症の悪化により父が死去。

*この一件は、自伝には小学校時代のことだとあるのだが、『愛染かつら』の公開、『旅の夜風』の大ヒットは共に'38年であるため、本人の記憶違いか、公称では'26年生れだった(らしい)ことからくる矛盾か。
*父鬼佐久は「そりゃ、もう実に、名前のように厳格でこわい人」。残るのは叱責された記憶ばかりであったらしい(「小さな伝承」)。
1939
S14
(15歳)
三月、稼ぎ手が一人となった家計の負担を減らすため、母の心づくしの十円札2枚を手に上京。日本鋼管に勤める異父兄のつてで変電所に仮雇いの職を得る。ほどなく早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)の補欠試験にも合格、将来のエンジニアをめざす。
1941
S16
(17歳)
開戦に伴う学制の変化により、早稲田工手学校は廃校となり、後身の早稲田高等工学校へと移籍。
6月、すでに貴重品だったおハギをおごられに学友宅に徒歩で向かう途中、浅草六区を初めて通り、常磐座写真右手前)で藤山一郎ショーを観賞。おハギの味も記憶に残らないほどの衝撃を受け、「音楽で身を立てようと思い決め」る。さっそく受けた東洋音楽学校 (現・東京音楽大学) の試験にも合格、兄夫婦の反対を押し切って工手学校を中退し、器楽科に入学。学ぶうちに「歌の魅力に、いや魔力にとりつかれ始め」るが、学徒徴用令により、暮からは三鷹の中島航空機製作所通いの身となる。

*「週刊平凡」('78)に寄稿の「私の歳時記」には「少年時代の田舎廻りの旅芸人へのあこがれ」が「初めて見た歌謡ショーで目を覚ましたのでしょう」「歌手になること以外に我が進むべき道はないと決めてしまったのです」との記述がある。

前掲の自伝によれば、出演者は藤山のほか、ハットボンボンズ、田谷力三、笠置シヅ子等、指揮は服部良一。

同じく自伝によれば、歌手志望の動機は、ショーから受けた感動に加え、多くの人を集め、魅了する存在になることが「今の貧しさから抜け出す近道だ」と考えたため。器楽科を選択したのは音楽教師の免状がとりやすいと聞き、「先生の資格があれば、将来、生活の安定はたやすい」と考えたためだが、ほどなく声楽科に移る。
1944
S19
(20歳)
流行歌の歌い方を身につけるべく、東京声専音楽学校(現・昭和音楽大学)に転校。転入に際して受けた試験では、「いい声してますね、渡部くん」とほめられる。また、「その他大勢の一人」としてムーラン・ルージュ新宿座で初舞台を踏むが、洋楽は敵性音楽として禁じられ、わずかに歌えるのは軍歌ばかりの状況が続く。
秋頃、かねてから恐れていた召集令状がついに届き、会津若松陸軍第29連隊に入隊。

ムーラン・ルージュ新宿座の往時の雰囲気を再現した'74年の企画アルバム、『ムーラン・ルージュの灯は消えず』('08年にCD化)には春日も参加、『ラムール・リズム』ほか数曲を歌っている。
声専時代(クラス?の記念写真より)。
1945
S20
(21歳)
半年の訓練の後広島に移動、宇品港からフィリピンへと向かう途中で座礁、台湾で足止めとなり、その地で敗戦を、迎える。11月、復員。
1946
S21
(22歳)
春に一旦帰郷し、会津の運送会社に当座の職を得る。
10月半ば、「何をするにも、やっぱり東京だ」との思いに駆り立てられて再上京、ムーラン・ルージュ新宿座に戻り、 渡部勇助の芸名で歌手活動を開始。
1947
S22
(23歳)
7月、キングレコードの第1回歌謡コンクールに応募し、細川潤一作曲の『涙の責任』を歌う。二千人を越す応募者の中から男性としては二人(三人との説も。女性は四人)のみの合格者に入り、準専属歌手となる(『日本芸能人名事典』には'48年とあるが、『日本の歌 明治大正昭和はやりうた』のブックレット等に従い'47年とする)。「澄んだ美しい高音」に注目したキングの専属作曲家細川潤一が指導を買って出、レッスン室に通う日々が続く。当時の芸名は歌川俊。
これを機にムーラン・ルージュを退団するが、準専属歌手は無給待遇であったため、新宿の聚楽への月に二、三度の出演以外収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続く。

細川潤一(ほそかわ・じゅんいち、1913〜91)日本調の曲を得意とし、"音頭といえば細川"と言われた作曲家。三橋美智也の『古城』などの他、和製タンゴの名曲『マロニエの木陰』でも有名。

オーディション開催の時期は長田暁二「歌謡史外伝」('99.6.12.讀売新聞)による(高橋掬太郎「春日八郎君のこと」の記述によれば春)
1948
S23
(24歳)
この頃、私生活上でも一波乱あり、少しでも早く稼ぐため、当時大流行のジャズを学ぼうと横浜に行く。元ジャズ。シンガーの米軍将校夫人に渡りをつけ、下働き兼生徒とはなったものの、ジャズは「肌に合わない」と悟る結果に。当座の勉学資金を稼ぐため、闇商売に手を染める。重なる失意の中、秋に一旦帰郷はするが、暮に上京、再び聚楽の舞台に立つ。
1949
S24
(25歳)
春、高橋掬太郎作詞、上原げんと作曲の『燕来る頃』で初のテスト吹き込みをするが、新譜会議で不採用に。オーディション合格組の男性がワンコーラスずつ歌う『ラッキーボーイ』(上原げんと作曲)もまたお蔵入りとなり、赤貧の日々はさらに続く。
改めて専属となり、毎日舞台に出るようになった聚楽で、ピンチヒッターとしてたまたま出演した江口夜詩の門下生、桧坂恵子(芸名松宮恵子、のちの春日夫人)と知り合い、意気投合。細川の一身上の都合からレッスンを継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子と細川の仲介により、江口夜詩に師事。

お蔵入りの理由として考えられるものは、
1.会津訛りが強かったため(『日本芸能人名事典』及び
長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』による。長田によれば、その後「藤山一郎のレコードを買い込んで」日本語の発音を自ら猛特訓)。
2.低音が不十分であったため(細川潤一『春日君の苦練時代を思う』)。雨の日も風の日も多摩川の河原で発声練習をしたというエピソードは有名。
3.低音の件に加え、「声がどうも華奢」と江口には評され、「唱歌みたいだとか、声にツヤがないとか、専門家にけなされ」た(自伝)。
4.当時、キングレコードでは岡晴夫、小畑実、林伊佐緒等のベテラン勢に加え、津村謙、若原一郎と“高音の美声”系の有望な若手も活躍中で、新人・渡部実にまでは手がまわらなかった(矢野亮の弁)。
5.この年の夏にキングレコードに内紛があり、師の細川潤一が人員整理の対象となった(飯島哲夫『上海帰りのリル』)。
6.戦後の復興途上でレコード界は物資
が不足し、レコード屋の多くも戦災から立ち直っていなかった(春日八郎「歌謡生活十年の思い出」/掲載誌不詳)。

江口夜詩(えぐち・よし、1903〜78)'24年にキング専属となり、岡晴夫のために書いた『憧れのハワイ航路』を大ヒットさせた作曲家。小畑実、津村謙など、歌手の育成でも定評があった。
1950
S25
(26歳)
家出を決行した桧坂恵子と、鍋一つない下宿で事実上の結婚生活をスタート。この頃、三門順子の前座歌手となり、カバン持ち、写譜、時にはアレンジ係を兼ねての地方公演生活が続くが、「心無い野次を飛ばされて一曲も歌えない」ことも少なくはなかった(矢野亮談)。
多摩川で、無名、赤貧時代の二人

三門順子(みかど・じゅんこ、1911〜54)「キングの名花」と謳われた美人歌手。長唄小唄等の邦楽、詩吟、日舞をよくし、『暁の決死隊』『愛馬行』などをヒットさせたが、早世。

矢野亮(やの・りょう、1910〜86)キングレコードのディレクターだった三上好雄の作詞家としてのペンネーム。『星影の小径』『おーい中村君』『夕焼けとんび』等のほか、春日にも『あン時ゃどしゃ降り』など多くのヒット曲を提供。
1952
S27
(28歳)
春に恵子の妊娠が判明、家族のため、歌の道をあきらめて新聞社に就職しようとするが、履歴書を見た恵子の猛反対(「歌をやめたあなたなんて、魅力もなにもないわ」等々)に遭い、撤回。
写真はSP盤『赤いランプの終列車』
8月、恵子の熱意と本人の努力に心を打たれた師、江口夜詩が、春日のために新曲『赤いランプの終列車』を作曲。自宅でテープに吹き込み、キングレコードに改めて春日を推薦する。闇屋の経歴、過去の女性関係が問題視されるなど、紆余曲折を経てなんとかレコード化、11月に発売。

*江口夜詩の証言によれば、「キングレコードはこの曲を序列では 十枚の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった」。

*自伝には、
『赤い〜』は江口がこの年初春の「夏頃までには」との約束通り作曲したものと記されている。菊池清麿の『昭和演歌とその歴史』には「江口夜詩が岡晴夫用に作曲した歌」とあるものの、その典拠はとくに示されていない。翌年夏の中ヒット、『街の燈台』についてなら自伝にも「初めは、岡さんに歌わせるつもりでつくられた」とあるのだが、こちらは江口ではなく、吉田矢健治の曲。なお、当時の春日の声、唱法は岡と相当に似ていたらしい。

*改名するにあたっての名付親は作詞家の藤間哲郎。たまたま岡晴夫宅に祀られている春日大明神の神棚を目にしたことから、「岡さん以上の歌手になれという意味を含めて」春日とし、末広がりの八の
字を「運が開くよう」にと名に入れたもの(「歌謡生活十年の思い出」)。
1953
S28
(29歳)
『赤いランプの終列車』が名古屋から売れ出し、やがて全国的なヒットに。三門順子の前座歌手を卒業し、秋からは当時大人気だった先輩歌手、岡晴夫の前座をつとめるようになり、生活のメドがようやく立つ。この年の吹き込みは中ヒットとなった『街の燈台』『雨降る街角』を含む12曲。青木光一、三浦洸一と並ぶ歌謡界の若手三羽烏として注目を集めはじめる。

名古屋からだった理由については、
1.矢野亮『春日八郎の誕生』によれば、「たまたま名古屋の大須にあるレコード屋のご主人が、なかなかおもしろい歌手であると気に入って宣伝し出したのがきっかけ」。長田暁二『昭和はやり唄秘話』の方には上記の「ご主人」は女性で、手書きのポップまで作って宣伝してくれたとある

2.名古屋はパチンコ発祥の地でもあり、「歌のリズムが手動式のパチンコを打つリズムとピッタリではなかったか、という人もいる」が、「いまになって考えてみてもよくはわからない」(『ふたりの坂道』)。

1954
S29
(30歳)
8月、移籍した岡晴夫のピンチヒッターとして、歌舞伎狂言『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』を題材とした軽快なお座敷ソング、『お富さん』を吹き込む。諸事情から練習時間はわずか1時間であったらしいが、これが空前の大ヒットに。子供たちまでが意味も知らぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」と口ずさむなど、社会現象化。一躍人気スターの仲間入りをする。

矢野亮によれば、ピンチヒッターとしても「最初は若原一郎が想定され」ていた。

*ラジオ番組で「『お富さんなんかきらいだ、吹き込みたくなかった』という意味の失言」。社内に物議を醸し、四方に陳謝してようやく一件落着となる(「歌謡生活十年の思い出」)。
SP盤『お富さん』と当時の歌詞カード→
1955
S30

(31歳)
続く『お富さん』ブームの中、「おれとは本来は違うもの」を歌っているという思いは消えず、周囲の「一曲が大ヒットし過ぎるとあとが続かない」「『お富さん』の消えるときが春日八郎の消えるとき」等々の声にも悩まされる日が続く。
11月、『別れの一本杉』発売。望郷演歌の嚆矢ともいえるこの歌は、一年半ぶりの大ヒットとなり、春日も歌手としての揺るぎない地位を確立、『別れの一本杉』は生涯の代表曲の一つとなる。
この年、「平凡」の人気投票男性歌手部門に初登場、2位以下(小畑実、田端義夫、津村謙、岡晴夫、藤山一郎等)に大差をつけての第1位に。
この年、初めて馬主となる(本人の弁によれば、多忙な生活からくるストレスの発散と健康維持のためと、歌謡界での馬主のはしりだった岡晴夫の「影響を受けたのかも知れない」)。

キングレコード社内の廊下で、一面識もなかった船村徹に呼び止められ、是非にと乞われてギター伴奏で聞いた三曲のうちの一曲で、即座に「歌わせてくれませんか」との流れに──というのがコンサートでも語られ、自伝にも書かれている物語。ただし、船村徹の方の自伝にはそのエピソードは出てこない。三橋美智也とのカップリング・レコードの企画が持ち上がりはしたものの、決まったのは三橋の曲(『君は海鳥渡り鳥』)のみで、春日の曲が難航、お蔵入りのものの中から「企画とは別の流れですでにレコーディングを済ませてあった」この曲が浮上し、10月20日に再吹き込みとなった、との説明のみで、「別の流れ」が上記の出来事をさすものかどうかは不明。

*当初のタイトルは『泣けたっけ』だったが、ディレクターの掛川尚雄が「歌詞も含めて『泣けた』が多過ぎる」と現在のものに変更。
上写真は『別れの一本杉』と歌詞カード

(文中敬称略)


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