♪春日八郎アーカイヴ♪

春日八郎を、読む

振り返ってみますと、私は、本当に不器用な男です。今の時代のように、いろんな歌が歌えて、いろんなことができたら、私の歌の道もまたいくらか違ってたんじゃないか。そういうふうに思っております。でも──自分には自分の歌、演歌があるんだ。そんな風に、ええ……、大上段に構え、歌っていくほかありません。しかし、私のほんとうの夢は、男がいた、そして生きた、そして、歌った。それが、はっきり言えるような歌い手でありたい。ただそれだけです。

 ──春日八郎 NHK『この人 春日八郎ショウ』'84より 


春日はお芝居もできるというような器用な人間ではありませんからね。ただ演歌を歌うしかなかったんです。家庭のことだって、無頓着で、おアシがなくても平気なんです。まるっきり歌だけなんですね。そんな不器用なところが、かえって良かったのかもしれません。

──渡部恵子(芸術祭大賞受賞後の「週刊平凡」インタビュー'73より)


彼(春日)が昭和22、23年頃、ムーランに出て歌ってたけど、ムーランというのは狭い小屋だから、すぐ聞こえるんだね。(中略)ところが春日は、というと、あそこのドン張(原文ママ)前で歌ってて、「声が小さい、聞こえてないぞ!」なんてどなられてるんだ(笑)。でもあの時に彼は、歌い方を覚えたんだ。小屋が小さいから客の反応のしかたもね。

──平井賢(音楽評論家、『明治 大正 昭和はやり歌』付属パンフに収録の座談会より)


 
歌手の春日八郎が渡辺実という名前で小議会(*1)に出ていた。これは後から中江良夫(*2)さんに教えられたんだけど、声が小さくて舞台の後ろまで届かない。今村源兵(*3)さんが夜中の誰もいない舞台で春日八郎が一人で歌の練習しているのを見て、鬼気迫るものがあった、と中江さんに話したらしい。

──中村公彦(映画美術家、*4)
『ムーラン・ルージュ新宿座─軽演劇の昭和小史─』所収のインタビューより

1 ムーラン・ルージュ新宿座は戦後「赤い風車作文座」の名で'46年に5月に再開場。同年10月から翌年1月までは「劇団小議会」の名のもとに12会の公演を行った。
2 劇作家。'40年からムーランルージュ新宿座文芸部に参加。
3 俳優。小議会時代に演芸部員として参加していた。
4 戦後復活したムーラン・ルージュに'46の小議会時代から参加、舞台装置を担当。


「劇団小議会」第一回公演の初日は中江良夫作『壺から出た男爵』他で開幕。スターは明日待子、藤尾純、宮坂将嘉ほか。コーラスボーイの渡部実(春日八郎)はズックの靴。渾沌たる時代、芝居を見るより空腹を満たしたい、本当に日本中が飢えている時代。固い木のベンチで舞台を見つめる観客の目はうつろ……。

──木村重夫(ムーラン・ルージュ文芸部員、(『ムーラン・ルージュの灯は消えず』付属ブックレット中「戦後のムーラン、昭和二一年一〇月」より)


 戦後再び東京へ出て、音楽の道をもう一度勉強しよう、音楽学校に行ってみようということも考えたんですけども、まあ、それにはいろいろ事情もあって、学生の当時アルバイトでやっておりましたムーラン・ルージュの門を再び叩いてみたところが、快く迎えてくれまして、入ったわけです。まあ、ムーランといいますと、やはりあの当時、私なんかで使えるというところは、通行人をやらされたり、ぼくの場合はどうも、東北生まれのせいか、訛りが強いんですねえ……。せっかくのいい役がついても君は訛りがあるからだめだと、そんなことを言われて。今の由利先輩あたりにもそんなことを言われたことがあります。
 ささやかな月給をもらうと月の半ばにはもう無くなってくる。あとどうして生活しようかなんていうことを考えて(笑)、そんなことで一年半。なんかもう、お金なんかなくても非常に楽しく、声を張り上げて、勉強して参りましたね。
 その頃ですか、まあ、一週一週毎回同じようなことばかりやらされておって、こんなことでもしょうがないなと。いろんなことを考えていた矢先だと思いますね。何気なしに新聞の片隅を眺めておりましたら、キングレコード第一回新人歌手募集というのが目につきまして、よし、それならば一つ、これに応募してみようと葉書を出した。

──春日八郎(談)30周年記念LPボックス『軌跡 春日八郎 歌ひとすじの道』'76
  の付録LP『春日八郎が歩いた これからも歩く 戻りのない道、歌の道』より


 ちょうど僕はね、研究生でやってましたら、なーんかモソーッとしたのが入ってきたなあと思ったんですよ。感じとしては牧師さんみたいなね、大人しそうで。
 で、これがまた訛りがひどいんだよね。彼が福島でしょ。僕は宮城県なんですよ。だからまあ、おんなじ東北人だから、訛りを直してやろうと思ってね。それで一生懸命訛りを直したんですね。ところが舞台に出ても全然訛ってて、まあ、聞いてておかしくてしょうがないんだよね。で、一生懸命、夜は私の下宿に連れてって、訛りをまた直してやったんですよ。
 それで、よーし直ったと。明日から一緒に舞台に出ました。完全に直ってんですよ? そしたら先輩からね、楽屋にちょっと来いって呼ばれたんですよ。ちょっとお前たち二人座れと。おい、由利君、君も東北だな。春日君も東北だろ。一生懸命直したのは良かったけれども、二人とも訛りがひどいねえって言われてね。大笑いしたことがありましたけどね。
 当時のムーランてのはねえ、ええ、バラエティーってのがあったね。要するに寸劇がちょっと入って、あとはレビューだね。それの組み合わせみたいなので、バラエティー。それが終わるとお芝居が、大体、一時間物が一本に五十分物が一本。そういう組み合わせだったですけどね。
 春日君はショーで、バラエティーの方で歌ったり、あるいはコントしたり。コントっていっても、いいコントはさせてもらえなかったけれどもね。通行人とかさ。芝居の方は訛りがあるからね。あんまりいい役はつかなかったなあ。
 八ちゃんが『お富さん』でレコード出して、もう爆発的な人気だったんですけどね。私は全然、あの春日八郎って知らなかったんですよ。大体、ムーランのときは渡部実っていってましたからね。それで、あの渡部実がと思ってびっくりしましたよ。でも、バンザイしたんですけどね。
 僕は、歌の方は素人だけどねえ、芝居で一生懸命、三十何年もやってますけど、八ちゃんの、歌の三十何年ってのは、大変なもんだと思うんですよ。昔聞いた声と、今の声が全然落ちてない。それだけ、あの人は大したもんだと思うんですね。

──由利徹(談)30周年記念LPボックス『軌跡 春日八郎 歌ひとすじの道』'76
の付録LP『春日八郎が歩いた これからも歩く 戻りのない道、歌の道』より


 まあ、僕も歌うたいですから。春日君とは親しいし、彼の成長ぶりとか、もう古いですからねえ、ずっと見てきていますけど、彼はやはり、声に大変恵まれてると思いますね。天性のものをもっています。その上に歌も、非常にうまいですからね。まあ、十年選手、二十年選手、三十年選手になりますとね? だんだん、声の艶は落ちてくる。これは理の当然だけれども、彼にはそれがちっともない。今でも、非常に素晴らしい声をしています。それに年輪が加えた型というものが加わってね。春日八郎は、一番歌がうまいんじゃないかと、こういう風に思うんですね。

──林伊佐緒(談)30周年記念LPボックス『軌跡 春日八郎 歌ひとすじの道』'76
の付録LP『春日八郎が歩いた これからも歩く 戻りのない道、歌の道』より


 先輩の春日八郎さんのレコードはくり返し、くり返し聴きました。歌唱力は抜群です。春日さんの巧唱ぶりを丹念に分析し、その抜群のテクニックを支えている要素を取り入れ、自分なりに消化し、『角帽浪人』(*1)をヒットさせようと努力したのでした。

──三橋美智也(『ミッチーの人生演歌』'83より

1 『おんな船頭唄』でブレイクする直前の曲。作詞は猪又良、作曲は渡久地政信。


 低迷時代(*1)の田端義夫が研究のため飲み屋の屋台をハシゴしては流しの歌を聴いたところ、春日八郎の歌が圧倒的に強いことを知り、春日を研究、力まずに歌うのちの歌唱法を編み出した。

──長田暁二(大衆音楽文化研究家、*2)『私のレコード100年史』より 

1 '50年代半ばから、街で自ら発掘した『島育ち』が大ヒットとなる'62年まで。
2 '53〜'75までキングレコードにディレクターとして在籍。


 東北巡業を終えた新人歌手が、五四年四月二八日朝、夜行列車で東京・上野駅に着いた。その二年前の暮れに、『赤いランプの終列車』でデビュー、一本立ちした春日八郎、二十九歳である。
「駅にキングの人が待ち受けていた。手渡された譜面を見ると、やたらに『お富さん』が出てくるヘンな歌だと思いました。歌舞伎を知りませんから。面食らっていると、とにかくスタジオへとせかされた」
(略)歌詞と同様、前奏もブギのリズムで入る風変わりなものだったが、春日は「すでに『瓢箪ブギ』を歌っていたので、自然に乗れた」という。さらに、スタジオで手拍子が追加された。

──読売新聞社社会部(『この歌この歌手』より)


『お富さん』の裏話
春日八郎

 あの歌は僅か一時間の練習で、しかも作曲した渡久地先生におこられおこられながら吹込んだ歌なのです。そのわけは、吹込前日先生の練習を受けるために会社に行ったのですが、先生が吹込中なので、ちょっとのつもりで実演の関係者と外出してしまい、そのまま戻らなかったのです。ところが会社では、先生や作詩の山崎正先生達が私が今戻るかかえるかと薄暗くなるまで待っておられ、遂に一本気の渡久地先生はおこり出してしまい、「春日にはさせぬ」といい出されたのを、間に立った課長が「明日早く春日を呼びよせるから」ということでその日はすませたのだそうです。そんな事は知らない私は翌日吹込一時間前にノコノコと出社してみると、渡久地先生にいきなりドナリつけられる始末。(略)
 これですめばよかったのですが、私も思いあがっていたというか、若さのさせた馬鹿というか、『お富さん』がどんどんヒットしている最中、『平凡アワー』に出演し、いろいろと聞かれているうちに、この時のことが心に残っていたためか、「お富さんなんかきらいだ、吹込みたくなかった」という意味の失言をやってしまいました。これが運悪く? 渡久地、山崎の先生始め、関係者一同に聞かれたから大変。今度は会社中の騒ぎになってしまいました。結局は文芸部長や江口先生に諄々と私の不心得をさとされ、私も申し訳なかったと気づいたので、あらためて両先生や関係者にお詫びを申し上げ、すべてを水に流していただきました。

──「歌謡生活十年の思い出」(掲載誌不詳)より
(原文に適宜読点を補ったもの)


『春日八郎の 大正・昭和はやり唄』について
添田さつき(*1)

 これは、大正と昭和初期の唄だから、いま歌えば、リヴァイヴァル(*2)といわれるのだろう。
 けれどもリヴァイヴァルは、決してその昔のままには歌われないものだ。当時を知っている人は、それを不満とするが、時代とともに音感は変る。同じ唄でも歌手が違えば、ニュアンスが違ってくるように、年代を違えた歌手が歌えば、感じが違ってくるのも、当然なことである。文句はいえない。
 ところで、おもしろいことは、春日八郎のソングには、どこかに、古い唄のそれぞれの持つ時代感が、そこはかとなく伝わっている。いまの歌手だから、現代調に歌うのは当りまえで、完全な復原ではあり得ないが、それでいながら、歌われた当時の気分が、なんとなく出ているから、そこがおもしろい。
 キモノが洋服に変っても、日本人の子は日本人だ、ということだろう。リズム、メロディーの上で、日本人の血脈の流れ伝わることの実証を、春日八郎がしているのである。
 編曲はいずれも当代の新鋭である。そしてまた、これが、大正期に、歌手、作詞・作曲家として活躍した者どもの、跡つぎたち
(*3)である。ここにも血脈の流れは見出されるに違いない。
 この新鋭たちが、生まれぬ前や、生まれたばかりのころの唄を、いかに現代に活かしてみせるかが、この集の楽しみである。
 私は監修だなどと、ていよく引合いにひっぱり出されただけのことだが、以上述べた意味で、この集がどのようなアピールをするかを、首をのべて待つ次第である。

──『春日八郎の大正・昭和はやり唄』'63より 

1 別名添田知道。演歌師、著述家で添田唖蝉坊の長男。
2 '60年代初めの歌謡界には一大リヴァイヴァル・ブームが起きていた。
3 このアルバムには演歌師・花沢渓泉の長男である佐伯としを、演歌師・鳥取春陽の長男である山田量男が編曲陣として参加。


春日八郎を想う
江口夜詩(キングレコード専属作曲家)

 春日八郎がデビューしてからもう十四、五年になると思うが、パッと出て数年後には忘れられてしまうのが通例である歌謡界に於て、十数年間トップクラスを歩き続け、現在に於ても尚大ヒットを放っている彼は、まことに大歌手といわれるにふさわしい存在であると思う。
 今、振り返って彼のデビュー当時を思い出してみると、一寸他に類例を見ない程、それは華々しく又爆発的なものであった。
 彼のデビュー作は私が作曲した『赤いランプの終列車』であったが、キングレコードは、この曲をその月の新譜の序列では十枚程の中で一番後尾としていた位で、あまり高く買ってはいなかった。
 所が、売出してみると、一と月足らずの間にこれがトップにのし上がってしまって、周囲の者を唖然とさせたのであった。
 この様な事はレコード界では滅多にない事で、この一枚によって春日八郎の未来が決定づけられたと云っても過言ではないと思う。それからの春日は、年間二、三曲の大ヒットを矢継ぎ早に飛ばし続けて歌謡界の王座に君臨したのであった。
 彼があまりにも短期間に爆発的な人気をかち得て、出演料もうなぎ上りに高くなってしまったので、地方の委託レコードの作曲を彼の歌唱で依頼された時等に、前年の出演料を例に出されて大変困った事等を憶えている。
 彼のヒット盤の一つの『瓢箪ブギ』などは、私の郷里養老町の依頼によって作曲したものであるが、委託レコードが全国的にヒットすると云う様な事も余り例がないのではないかと思う。其の他『浮草の宿』『トチチリ流し』等も私にとっては思い出深いヒット曲である。
 彼が今日まで王座を保ち続けている原因はどこにあるか、それには色々理由はあると思うが、先づ第一に挙げたいのはデビュー前の下積み時代が非常に長かったことにあると思われる。彼が歌の勉強をはじめてからデビューするまで、実に十年間の苦闘時代があった。
 大概の人は、二年か三年やってみて一通り歌えるようになると、すぐに何処かのレコード会社に入りたがって、その事ばかりにあくせくして結局何にもならないか、又はどうにか入っても、大成しないで何時のまにか脱落してしまうのであるが、黙々として十年間文字通り食うものも食わず、ひたすらに努力を続けると云う事は、単に歌の道のみではなく、何をするにも至難のことであって、凡人には容易に成し遂げ得ない事であるが、それを成し遂げたところに、彼の今日ある最大の原因があると思う。
 それにもう一つ、これは誰の場合でも同じであると思うが、一人の大スターの蔭には、作詞、作曲、ディレクター、宣伝部員等々、幾多の人々の血のにじむ様な努力が結集されているという事を忘れてはいけないと思う。
 最後に、私は好漢、春日八郎の何時迄も元気に歌い続ける事を願って止まないものである。

──勁文フォノカラーNo.90『春日八郎ヒットショー』'63より 
(原文に適宜読点を補ったもの)


春日八郎君のこと
高橋掬太郎(キングレコード専属作詞家)

 レコード歌手が世に出るまでには、みんな相当に苦労をするようだが、わが春日八郎君ほど、苦労に苦労を積み重ねた歌手は少ないのではないかと思う。
 春日君は福島県に生まれ、東洋音楽学校を卒業して、はじめ新宿のムーラン・ルージュにはいったが、昭和二十三年の春、キングレコードの歌謡コンクールに合格し、明日のレコード歌手に、希望の胸をふくらます身となった。だが、その明日という日が、あまりにも遠かった。
 いくら音楽学校を卒業しても、音楽学校では流行歌のうたい方を教えないから、レコード歌手になって流行歌をうたうためには、改めてその勉強をしなくてはならない。そこで春日君は、作曲家の細川潤一氏について学び、二十四年の春に、最初のテスト吹き込みをした。曲は私の作詞に、上原げんと氏が作曲した『燕来る頃』で、なかなか評判がよく、私たちはこれで彼が世に出るだろうと期待したのだが、どういうわけか新譜会議で不採用となり、せっかく立ち上がった希望の岡から、彼はたちまち失望の谷底へひき落とされてしまった。
 だれの場合でもそうだが、テスト吹き込みができ、それが新譜会議にまで提出されるということは、運命の岐路に立ったみたいなものである。このチャンスに足をすべらすと、つぎのチャンスはなかなかめぐってこない。だから、たいていの者は、ここでだめだといわれるとあきらめてしまうのだが、春日君はあきらめなかった。石にすがりつくほどの執念で、さらに江口夜詩氏の門にはいって勉強を続けたが、今でも春日君は、当時のことを思うと、涙なきを得ないであろう。
 さいわいに天は、この不撓不屈の根性に対し、第二のチャンスを与えてくれた。苦難の道を歩むこと三年、二十七年の秋に、恩師の江口氏が、彼を改めてキングに推薦し、自ら作曲した「赤いランプの終列車」を吹き込ませたが、この終列車に乗ってきた第二のチャンスは、彼に輝かしい希望の暁を迎えさせた。春日八郎という名もこのとき生まれた。そして『街の燈台』『小雨の駅にベルが鳴る』『雨降る街角』などのヒットを連発したが、三年目の二十九年八月に出した『お富さん』によって、ついに春日君は、天下第一の人気歌手になったのである。
 それにつけても、不思議なのは人間の運命である。もし春日君が、最初の『燕来る頃』でデビューしていたどうであろうか。あるいはいまの春日君とおなじように、人気歌手になっていたかもしれないが、そのときデビューできなかったからこそ、いっそう勉強して、磨きに磨きをかけたのであり、それなればこそ、いつまでも新鮮な魅力を持って、うたい続けることができたのではあるまいか──

 苦労をすれば人間ができるというが、苦労をすれば芸域も広くなるのかもしれない。本命の艶歌調はむろんのこと、三弦調、民謡調、あるいはジャズ調、何をうたっても春日君のテクニックのうまさには感嘆する。それは、デビュー曲の『赤いランプの終列車』から、最近の『長崎の女』までのヒット曲を収めたこのLP「花のステージ」を聞けば、だれもが肯くことであろう。また、彼の歌声の庶民的な情感は、聞く者の胸に深い親しみをおぼえさせずにおかない。私はここに春日君の歌手としての限りない生命を感じ、彼のために最高のヒットを書きたいという意欲がつねに湧き上がるのである。

──『春日八郎 花のステージ』'64より 


『春日八郎歌謡生活十五周年記念リサイタル』のLPに寄せて
矢野亮(キングレコード専属作詞家)

 キングレコードで全国から新人歌手を募集することになって、その最終審査が、東京・音羽にあった旧スタジオで行われた。私も審査の一員としてその席に加わっていたのだが、結局最後まで残った者は女性が多く、その中に男性はたった二人だけだった。その一人が本名渡部実といった白面の青年春日八郎だったのである。
 女性陣はただちに歌手として活動をはじめ、キング娘として、グループで、あるいはソリストとしてかなり売り出したものだが、どういうものか男性陣は恵まれなかった。芸能界には何か断層のようなものがあって、一度それに落ち込むとそれからはい上がることはたいへんなことなのである。
 ほかの一人はそのまま浮かび上がらず消えていってしまったし、彼の苦闘もまた長く苦しかった。当時売り出していた故三門順子の前座として地方を回っていた時、心ない野次を飛ばされ、喧騒の中でたった一曲の歌も歌えず、一人楽屋の隅で男泣きに泣いたこともたびたびあったと聞かされたことがある。
 芸道一筋の苦労は当然のことであるが、家庭を背負っての経済的な重荷は更に想像するにあまりあるものだったことだろう。
 彼も歌をすてるかどうかの岐路に立たされた。そして最後の決断をかけて、恩師江口夜詩氏にすがり、吹き込み発売された最初のレコードが、昭和二十七年の十二月に発売された『赤いランプの終列車』だったのである。
 運命の賽は投げられた。彼にとっては必死の祈りをこめた叫びだったのだが、あまり期待もかけられていない無名の新人のデビュー曲が、天下を風靡するなどということは、この業界にあってもまさに奇跡に近いことなのだ。
 しかし、現実にはこの一曲が、名古屋の一角から火の手をあげて、たちまちにして全国にひろがり、文字通りの大ヒットとなってしまったことは、皆様もよくご存じの通りである。
 奇跡は起こった。そして花形歌手春日八郎はレコード界に誕生した。

──『春日八郎歌謡生活十五周年記念リサイタル』'66より 


春日八郎/ヒット曲の思い出
矢野亮(キングレコード専属作詞家)

 春日八郎も、もう大ベテランのひとりになってしまった。
 最近の若い歌手が人気が出ると、すぐ映画や、テレビや、劇や、バラエティーなどに手をひろげて、肝心な歌の方がどこかへ行ってしまうのに反して、きちんと直立した姿勢をくずさず、歌そのものをじっくり聞かせている彼のような歌手は珍しくなった。
 春日八郎は、〈演歌の王者〉とか〈演歌の神様〉などといわれているが、この人の持つ演歌調の味はまったく特別で、歌のうまさなら、だれにも認められているほど定評を持っている。
 歌謡曲の歌手は、ともすれば年令とともに、技巧は達者になりながらも、声質がおとろえてくるものだが、不思議なことに彼の美声はますます冴えて、その張りのある高音部などは、今なおほれぼれするほどの魅力がある。
 声を保つために、特別な摂生法でもしている様子もあまり見受けないのだから、春日の声帯は、きっと特別製の優秀なものなのかもしれない。
 演歌一筋に行き、そして演歌の本当の味を味わわせてくれる春日八郎の存在は、現在の歌謡界に貴重な存在として、キラリと光っている。
 この『春日八郎/魅力のすべて』は、彼の数多いヒットの中から三十二曲を選んで、三十センチLP二枚に収めた特集で、本当の演歌の味を満喫したいファンには、欠くことのできないものとなるだろう。

──2枚組LP『春日八郎 魅力のすべて』'66より 


春日君の苦練時代を思う
細川潤一(キングレコード専属作曲家)

 たしか昭和二十二年だったと思う。キングレコードが戦後初の新人歌手募集のコンクールを音羽の吹き込み所で催した。その時わたしも審査員のひとりとして約三百人の応募者の歌を聞いたが、その中で私の作曲した『涙の責任』を歌った男性の声が特に強く印象に残った。
 結局厳選の末採用された男性二名、女性四名の中に右の青年が加わっていた。澄んだ美しい高音、低音にいくぶん難があったが、この男は将来必ず伸びると私は思った。その青年が今日の春日八郎君であり、当時は本名の渡部実君である。
 わたしはどうしても彼の歌を伸ばしたいと思い、ディレクターに是非わたしにまかせてくれと頼み込んだ。ここで初めてわたしと渡部君との関係が生まれたのである。当時私は千葉の田舎に疎開していた関係で、一週一回だけ会社のピアノでレッスンしていた。こんな短期間の練習ではとてもだめだと思っていたが、さいわいにもわたしも東京に移る機会を得て自宅のレッスンに切り替え、彼とふたりで取っ組みの猛練習が始まった。彼の歌に対する熱意と意気込みは激しかった。特にきれいな低音が歌謡曲には是非必要だったので、これの練習には特に力を入れたが、相手になっているわたしの方がくたくたになる始末だった
(*)。やがて猛練習の結果、一度テスト吹き込みをやることになった。わたしは新曲を作り、吹き込みをやった。しかし文芸部の批評ではやはり低音が不十分だとのことであった。これには本人ももちろん、わたしもがっかりしたが、「なにくそっ!」とばかり以前にも増して猛然と低音に取り組んだものである。
 その間生活のこともあって、彼も気持の上でかなり動揺があったことと思うが、熱意で乗り越え、約三年間わたしとともに練習に励んだ。
 その後急にわたしの都合でレッスンができなくなり、わたしは残念だと思いながらも、彼の将来を同じキングの作曲家江口夜詩先生にお願いし、彼にもいっそうの努力を期待した。その後私はたびたび江口先生のお宅で彼の歌を聞かせてもらったが、その努力は完全に実っていた。そして機会は来た。彼の出世作『赤いランプの終列車』の吹き込みとなって、春日八郎の名が誕生したのである。
 わたしは自分の作品でデビューしてもらいたかったが、そんなことはどうでもいい、彼のたゆまざる努力が実を結んだのである。わたしはうれしかった。あれから十五年……。
 この《春日八郎/魅力のすべて》も彼の十五年の努力の歴史の結晶である。思えば長い間よくがんばってくれた。いや、これからもますますがんばってもらいたい。そしていつまでも昔の苦練の時代を忘れないでほしいものである。

──2枚組LP『春日八郎 魅力のすべて』'66より 

*『歌こそ我が生命/春日八郎大全集』付属パンフ「春日君と私」によれ
ば、「唄に対する熱心さは異常な程で毎週毎週一回も休むこともなく、
寧ろレッスンする私の方が余りの熱心さに閉口するほどだった」とも。



思い出のあの人、この人/春日八郎
川口幹夫(テレビ・ディレクター、元NHK会長)

 私がテレビの仕事を始めた頃の歌謡界の若手三羽烏といわれたのは春日八郎、青木光一、三浦洸一の三人であった。昭和二十八年頃のことだ。この三羽烏がのちに「御三家」となるのである。
 春日八郎は下積みが長かったが、「赤いランプの終列車」がヒットして注目され始めていた。私が初めて「歌の花束」なる歌謡番組に出演してもらった時は、魅力的な「新人現わる」と注目され始めた頃である。お昼のナマ番組だったから、リハ-サルは午前九時半だった。早くから準備して待っているが他の人は揃ったのに、春日さんだけ来ない。
 内幸町の放送会館、二階のスタジオでイライラして待っていると、ゴメン、ゴメンと汗をふきながら春日さんがやってきた。「どうしたの?」「キングレコ-ドから歩いてきたら、やっぱり遠いなあ。十五分余分にかかっちゃったよ」
 キングレコ-ドは文京区の音羽町にある。歩くには少々どころか大変に遠い。あとでコッソリ聞くと、「電車賃が足りなくてネ」と彼は頭をかいた。
 ヒットし始めたとはいえ、まだ春日さんは新人だった。ほんとに電車賃がなかったのか、あるいは他の理由なのかそれは分からない。
 しかし、朝の空気の中を汗をふきふき、音羽から歩いてきてやっとリハ-サルに間に合った春日の顔を忘れない。
 春日八郎、福島県は会津坂下町の出身。人情に厚い男だった。高い声に魅力があってこれは必ず大物になる!と思った。果たせるかな、翌二十九年には「粋な黒塀見越しの松に……」の「お富さん」が大ヒットとなった。
 お富さんの大ヒットはそれまでの春日さんをガラリと変えた。彼はあっという間にスタ-になった。たった一年足らずでヒット歌手の頂点に立ったのだった。
 頂点に立ってからも彼は態度を変えなかった。いつも素朴だった。しかし外面はドンドン変わって行った。もはや音羽から歩いてくる必要はなかった。

──『冷や汗、感動50年 私のテレビ交友録』'04より 


『春日八郎大全集』讃辞
長谷川仁(参議院議員

 春日八郎という男はずいぶん長持ちしているが、彼は決して修身の教科書のような人間ではない。ずいぶん女房にも苦労をかけただろうし、泣いたり、笑ったりの人生をすごしてきているようだ。
 彼のいいところは何事でもそれを無理にかくそうとしないことだ。自分をきれいに見せようとしないし、一見キザのように見えるが、どうして結構もろさがある。すべて計算しないで、情にもろいから弟子のことやらいろいろのことで、背おわんでもいい荷物に時々苦しんで顔をしかめているのを何度かこの目で見ている。
 彼が好んで口にする言葉に〈泣き節〉というのがある。ご存知のように流行歌には星、かもめ、波止場、月等々が必ず登場するものだが、彼流の解釈によると、この種のメロディーは東洋人独特のもので、欧米人にはわからんという。
 酒は強くはないが、アルコールがまわるとはしゃいで、歌の講釈がはじまる。手ぶり足ぶり、それに「アーアーア」と声を出し、それをじっと聞いていると、ぐいぐいと引きつけられる。というのはその説得力は歌にほんとうにうちこんできた男だという激しさがあるからだ。
 その上、この男の良さは芸能界や歌手連中の悪口を絶対に口にしないことだ。世人というものは余程スキャンダルがお好きとみえて、宴席では、必ず彼に対して「だれはどうなの」「あの人の噂は?」と誘いをかけるが、笑って「僕は週刊誌じゃない」ととぼけてしまう。ここまで長持ちするのは、この社会特有の暗い渦巻きから常に遠ざかっているその処世のうまさもあるのだろう。
 性格のどこかが似通っているから、長くつきあっているのだろうが、一度こんなことがあった。ほかの芸人の真似をしているわけではないと思うが、僕の顔を見るときまって政治家をさんざんこきおろす。「なぜだ?」と聞くと、リズムを知らないからだとうそぶく。芸術を理解しないからだとはいわない。音痴の人間には人間本能の音を知ることができないというのだ。いつだったか、あんまりしつこいので、めったに歌わない僕がバンドに合わせて韓国語で『影を慕いて』をしんみりと歌った。若いころから古賀メロディーの好きな僕は、ソウルで一流の妓生に三日間かかってしこんでもらったものだけに、このときだけは八郎は目をつぶって聞いていたが、「感じが出てる。歌になってる」と手をたたいてくれた。以来政治家は歌を知らないといわなくなった。春日のいいところだ。(中略)
 このたび七十曲を精選して全集を出すにあたって、僕は心から彼の演歌に拍手を送りたい。「演歌は日本人の心の故郷である」というが、僕もそう思っている。
 浮き沈みのはげしいこの世界に君はよく生きてきた。その人生はたしかに「短かったぜ長かった」に違いない。もう今さら時代の波にこびることはない。二十年来の君独特のあのポーズで歌いつづけてもらいたい。銭湯やパチンコ屋や都会の裏町にいつまでも〈春日節〉がながれているように……。せめて君だけは庶民の間にあきられずにいてほしいよ。

──『春日八郎大全集』'68付属パンフレットより 


色々な意味で大先輩
立川談志(落語家)

 春日さんのデビューは「お富さん」(原文ママ)の昭和27年と聞いている。そうだとすると私が師匠柳家小さんに弟子入りをし、落語家としてデビューした年と同じである。もちろん春日さんの芸歴はムーラン・ルージュの時代があり、無名の歌手時代も加わり、はるかに長く古いと聞く。
〝談志さんは芸界に入ってどのくらい?〟という問いに〝春日八郎と同じですョ〟と答える。
 大先輩春日八郎の名を使うことによって己れのキャリアを少々のハッタリも含めて語っているわけなのである。
 その春日さんの『浮草の宿』が好きで、酔うと近藤しげるというプロのアコーディオン弾きにこれを注文する。
 一度彼の故郷会津若松で一緒になり宴席で〝ネエ、浮草の宿を唄ってよ〟と頼んだ時も〝歌詞を全部想い出せるかなあ……〟というので、〝私が教えるから唄ってよ〟と酔っているせいか無理を承知で頼み唄ってもらった夜があったが、何とも贅沢な酒であった。(中略)話がエスカレートしそうなのでやめるが、私は春日八郎
(カスハチ)の唄と生真面目というか、一風変わった人柄に(私にはそう映る)人一倍関心を持って二十数年になる。

*近藤志げる 1万曲のメロディーと歌詞を記憶しているアコーディオン奏者。





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