♪春日八郎アーカイヴ♪

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その対はない
2017.4.7記

 前回半端、かつ恣意的に引いてしまった「港町横濱 よもやま日記」(横浜の名物出版社、春風社の社長サン、兼エッセイストのかたのブログ)。
 引用元のエントリーは、
「面白いCDを見つけました。『春日八郎 三橋美智也を歌う』これは聴かずにいられません」
 に始まる一文で、当該箇所の前後もちゃんと補えば、
「いやはや、これはたしかに春日八郎の歌の世界。三橋の声がやさしく包み込むような抒情なら、春日八郎の声は実直な抒情とでもいえようか」
 つまり、三橋美智也と対比しての言葉でしたし、一読しておおと思ったのも、続く、
「ことばは意味を持っていますが、このふたりの声は、『はあああ』と発しただけで、色や風景まで見えてくるから不思議です」
 その部分の方。「はあああ」との表記がまず楽しい、なにより、「言葉は……」の前置きがいい。これは放置したままの例の謎にもつながる話では、とも考えたりしたのですけど、先日目にしたべつのブログの中には、

 
「ラジオ深夜便を付けっ放しで眠っていたが、流れていた春日八郎特集がウタうますぎて目覚めてしまった。うまい人はどの時代にもいるだろうが、なんかこう……知られざる日本の風土のディテールの隅から隅まで思い描いてしまうような歌声」──齋藤芽生「隠花微温室/画家 齋藤芽生の日記」

 ひどく説得力のあるそんな記述もあったのでした。やはり、なにかその辺? 歌が流行した時期と歌が呼び起こしたものが属する時期の一致は単なる偶然で、よって、強制的追想の主因でもなくて、とかなにか。
 でもまあ、それはともかく。『目ン無い千鳥』や『男の純情』、『勘太郎月夜唄』などなどが呼び起こすものついては話はごくシンプルです。聴けばたちどころに聴きおぼえた時期にいた鉄筋の官舎の居間が、南に向いた窓からいつも見えていた大きな富士が、秩父の連山が目には「浮かんで参りやす」。そして追って浮かぶのは、その家であった些細なようなことどもの記憶。居間で打ち揃って聞く場面の記憶もですけれど、出支度を急かすときに、
「急げ、幌馬車」
 節をつけて母がちょっと口ずさみ、
「ワンさん待ってて頂戴ネ」
 と父も応じて、などという一コマもあり、募る、
(なんと、懐かしいこと……)
 その思いのうちには奇妙なことに、私自身は存在しなかった日々への、ヴァーチャルな、みたいなものも相当混入している。やりとりの向こうにちらちらと見える、満州での日々への──その地で生まれて引き揚げ後に死んだと聞く上の姉だの、やはりその地で熱心に父が見たと聞く、いくつかの洋画だの(「ペペ・ル・モコ! ツァラ・レアンダー! ああ、よかったねえ……」)、その折々にはやった歌だのへの〝懐旧の念〟みたいなものが。
 世代にはそぐわない時期のはやり歌への嗜好のどこかには、父や母になり代わって往時を記憶し続け、ちゃんと記憶している証拠には、
(これこの通り)
 とばかりに懐かしみもし続けよう、というオブセッションがどうもあるらしい。案外、事の始めからその要素はあったかも、というのはつい最近初めて思いついたことでした(思い出の舞台となる場所が場所、当然ややっこしい思いもまた混入していますけど、ここでは措いて、ということで)。

 まあ、そんな次第で、戦前、戦中から敗戦直後にかけてのその種の歌は、まだレコードだった時分から多少集めもし、編集もしてきています。CDに新たに焼き直したものだけでいっても、美空ひばり版、森進一版、藤圭子版に青江三奈版、憂歌団とちあきなおみのコンピレーション盤その他。それぞれに大いに気に入ってはいるものの、曲によっては、まだ決定版がないという気のするものもある。オリジナルの歌唱、またはアレンジが私の好みとは違い、かといって、これといったカバーもといったようなもの。それなりのカバーはあるものの、どこかがなにか、もう一つかなというようなもの。
(春日八郎、いいではないの?)
 思った当初に私がまず期待をしたことは、そのあたりの不満の解消、または軽減で、
(『流浪の旅』とか『燦めく星座』、『急げ幌馬車』なんかはいいのじゃないかしら、すごく)
 それに『港の見える丘』や『星の流れに』、『ゴンドラの唄』あたりだったら、いいカバーは何ヴァージョンあっても等々。
 たまたまか、ではなかったか、上記の半分は歌ってはいず、歌っていることはいた『星の流れに』と『ゴンドラの唄』はちょっともう一つ。結局、ベスト盤に収録したのは『急げ幌馬車』ただ一曲で、『港の見える丘』ももし吹込んでいたのだとしても、もう一つであったのかもしれない。
「春日八郎には退廃、合わない。不倫もねえ……。合わないねっ」
 と、〝十歳ほど年長さん〟は言う。五種類焼いた方のカバー盤の五枚目を送ったところ、こういうのもたまにはね、と入れてみた『大阪の女』がバカに不評で──という流れの上での断言でした。
 たしかにまあこの歌は、四度も出てくる「わ」の「あかへんわ」以外の「わ」の座りがよろしくない。もとの歌詞自体がそうで、四番での「わ」なんかはひどく嘘くさく、せっかくの終助詞の春日がとは私も思います。でも、
(いうほど退廃? それに不倫? 『大阪の女』って)
 違うと思うけど。それにちょっとよくはない? とても上手に口説かれて、つい「がまんできずに」愛したの、って。男の押しにではない、あれは裡なるムラムラに負けたのだった、飲んでもいたし──と正直に認めているところが潔い。助詞の問題さえ措けば、こういう女の歌ならそういやじゃない、だといい、と男が身勝手に夢見て書いた詞なのだとしても。
 でも一般論としてはたしかに退廃的は彼には合わない。
「もっと一生懸命だというか、一途なところのある恋の方が合いますけどね」
 一途が裏返ってニヒルになって、結果、退廃的になる。あり得る話だとは思いますけど、こと、春日八郎についてならないなという気がします、退廃と一途というこの対は。今一だった『星の流れに』には開き直りと気怠さがあり、今三だった『船頭小唄』には深い諦念と退廃があり、そのいずれもが、彼の張りつめた声には合わない。合わないカバーでの春日八郎のよくなさ加減は、
(だからなんでしょ)
 という話にして私は終わりたい。
 でもどうも、なんだかそれだけではないらしいのですね。

「あんまり歌、上手くないんだよ」
2017.4.21記

 youtubeではもうずいぶん聴いていた。『神髄』だけはやっと手に入れて、あともっとどんな音源を探すべきなのか、とネット上を探索してまわっていたような頃、

「他の歌手のカヴァーだと『おいおい……』と思うほどの下手さだったのが謎だが、オリジナルの歌は当たり前だが巧い! 素晴らしい!」──suudarabushi「日々是口実」

 とあるのを目にしてええっ、と思ったことがありました。
(だっていいわよ、『東京の花売娘』も『夜霧のブルース』も)
 あれもいいしあれもよね、とその折にはスルー。『星の流れに』や『カスバの女』を聴いたときにも、合わない歌ってあるものだしねと思った程度の話でしたが、それから三月後に五枚組LPボックス、『日本の歌 明治・大正・昭和はやりうた』を入手。一枚目、二枚目と聴き進むうちに、
(もしかしてこのこと? おいおいって)
 右の言葉を私は思い出し、ことのついでに、
「君のは、どうも唱歌を聴いてるみたいでねえ」
 と言われたという自伝の一節も思い出しました。何年経ってもデビューできずにいるとき、望みはあるのかと「専門家」に──たぶんキングのディレクターかだれかに食い下がって訊ねたときの、それは返答だったはず。そういえば、自伝には、
「レコード会社の専門家の耳は、異常なほどに鋭く、こわいのだった」
 ともあったのでしたっけ。
 さるを、こはいかに。
 '77年の発売だとはいえ、うち三曲は自身のかつてのヒット。二五曲は'62年から'73年にかけてのアルバム五枚からの再収録で、いい出来のものは大体そっちということからしてみると、この録音時はよほど乗らなかったのか。これはとてもいい『かりそめの恋』『マロニエの木蔭』等の四曲も、
(じつは、べつの時の録音だったとか)
 想像もしたくなるほど、いくつかの録音には一曲を貫くナニカ、パッションとまではいわなくたって、イモーションとか、そんなものがないようになんだか聞こえる。投げてというのでもなく、どういうか、なにか、困ってでもいるようなというか。曲自体がおもしろくもない『ノルマントン号沈没の歌』とかはまあどうでもいい。でもなんで、『船頭小唄』がこうなるわけか、
(そもそもなんで、女声コーラス入れちゃうの、こういう歌に)
 その『船頭小唄』は、'72年の芸術祭大賞受賞のリサイタル、『演歌とは何だろう』でも、'75年のリサイタル、『さらに演歌を見つめて』でもオープニング・ナンバーとして歌われています。そのどちらの場合にも、一番はザ・プリティーズが名の通りにキレイに歌い、御本人は二番から登場。ナレーションをはさんでまた三番へと続くあいだ中ずっと、コーラスは流れ続けてという形のものでした。
 リサイタルならまあ話はわかります。なにしろ、芸術祭参加作品でもありましたしね? 二度目は二度目で、ほら、あの続きですというご挨拶と受け取ればいい。でもなぜ、スタジオ録音でもだったのかがよくわからない。しかも、歌もよくない。〝終助詞の春日八郎〟でもないし、パイライトのパぐらいも──と、遙かな昔、買ってきた新譜の『エルヴィス・ナウ』で、『ヘイ・ジュード』を聞いたときに似た気持にだんだんなってくる。なにかの間違いだと思いたい、でも無理みたい、という。

 そんな折も折、届いた本が、『談志絶唱 昭和の歌謡曲』。
 交際があったと読んだ、裏表紙には『別れの波止場』の古いジャケットの写真もあった。なにかしら、書いていないはずはないと踏んで注文していた一冊です。ぱらぱらとめくって見れば、すぐに、以下のようなエピソードが目には飛び込み、え、シンクロニシティー? とちょっと驚いたのでした。
 たまたま会ったか、誘い合わせてだったのか、とにかく小倉のあるクラブで二人で飲んでいた。プロはこういう場面では歌わないのがルールだとは承知しながら、
「ねえ、ここで一曲唄ってくれませんか」
「やだよ、俺は」
 そんなやりとりとなり、本人の弁によれば、酔っていたからなおも「クドクドいったのだろう」というような次第で、この場合のべつのルールにのっとって、持ち歌ではない歌を彼は結局は歌った。
「その唄は、『君は心の妻だから』。東京ロマンチカというコーラスグループが唄った歌だと思う。これが下手なんだ。あんな歌の上手い春日さんが見事に下手なんだ。わざと下手に唄っているのではない。普通に唄ってたが、これが下手、ヘタだ」
 それでも「客は素人」、拍手、大喝采は送られたものの、席に戻ってきた彼に、談志は、
「酷いね、どうも、下手だね」
 と言う。
「〝うーん、俺、あんまり歌、上手くないんだよ〟といったか、〝人の歌はあんまり上手く唄えないよ〟といったか、その両方が混ざったような答えをしたのを想い出します」
 大体、そういう話。参院選出馬騒動の一件といい、この件といい、言下に断る、みたいなことが苦手な人であったのか? という気もしますけれども、談志の名誉のために、べつの本
(藤浦敦『三遊亭円朝の遺言』)の中にあった以下の話もここに記すこととします。
 '79年の五月に、『新籠釣瓶─立川談志人情噺集』という本が出て、著者、藤浦敦は「年来の親友」であった春日八郎を出版記念会に招待した。大の寄席好き、落語好きでもあった春日は、
「初対面の立川談志にしきりに、『落語をやってくれ』とせがんだ。談志は『今日は自分の本の会だし、こういう席で落語はやりにくい』と躊躇した。春日は『なら小ばなしをやってくれ』という。談志は相手がかねて敬愛する春日なので、やりにくかったが小ばなしをやった」
 まるで子供は二人ともであった、ということで、とにかく、いたく感激した春日は返礼にとアコーディオンを借り、『別れの一本杉』など数曲を弾き語りして会場を大いに沸かせ、
「これから春日と談志の交際が始まった」
 断り切れなかった理由はその辺でもいいとして、やはり、不思議という思いはいろいろ残ります。それからどれだけ経ってだったか、談志もテレビで、


「人の歌を歌ってうまい歌手とへたな歌手といるでしょ。春日さんなんか大下手なんですよ。三橋さんも下手なんだよ」──立川談志「EXテレビ」

 なんてわざわざ言っている。上岡龍太郎、山城新伍と、バタヤン・ファン三人で田端本人を囲んでという番組の中での、田端サンのカバーはいい、という話の流れでの発言。談志は三橋美智也の大のファンなのでもあって、無論、悪口ではない。たぶん、よくよく不思議なことと思えたんでしょう。
 youtubeで見た古いテレビ番組でしたけど、田端義夫が、
「こんど出す自叙伝は、オース、オース、オース」
 とひとこと言っている『オース! オース! オース! バタヤンの人生航路』は'91年、三月に出版の本。ということは、春日八郎死去の年の春まだ浅い時期の録画であるはずで、もちろん談志は元気。山城新伍にも田端義夫にも衰えの気配は見えず、上岡龍太郎も引退まではかなり間のあった時期の映像なのですね。
 そこからこの今まではもう四半世紀。年月が過ぎていくののなんとまあ、早いことか。

個性が強すぎちゃって?
2017.4.23記

 前回、
「三橋さんも下手なんだよ」
 そう記した箇所をあらためて確認したら、「も」と「下手」のあいだに「大」があるような気がしてきました。「春日さんなんか」のあとの「大」よりは大分軽く言っている、というのは程度の差の表現か、単に、すぐ前にある助詞の母音との関係からか。
 それはともかく、談志は、「下手なんだよ」のあとには、
「自分の個性が強すぎちゃって」
 と考えついたらしい理由を言い添えている。でも、たとえば、個性的という点では人後に落ちない森進一のカバーはとてもいいのだし、
(そもそも、そこで現にほめている田端義夫自体、個性的でしょ?)
 と私は思います。
『オース! オース! オース!』の中で、田端義夫は、彼独自の唱法の誕生について、こう説明しています。
 毎夜、橋の下で一人練習を続けるうちに、初めは所詮「ものまねの歌い方」であったのが、
「ある夜、家の中で歌ってみて驚いた。自分で気がつかないうちにまねが取れ、カドが取れ、『田端流発声法』が自然に出来上がっていた」
 ほどなく、彼はポリドールレコードが開催した名古屋のアマチュア・コンクールに出場。田端流の唱法で歌って見事優勝し、プロ歌手をめざして上京、レコード会社のテストにも一度で合格すると、デビュー曲を皮切りにヒットを連発。二十歳を待たずにスター歌手となっている。準専属となっても、丸四年間レコードを出してはもらえなかった春日八郎とはまたずいぶんな違いなのですね。
 十三の頃、聞き覚えた浪曲を銭湯でうなり、近所中の評判にというエピソードにしても、「うまいといってほめてもらった記憶もない」という春日とは大違いだし、なにより、歌手になろうと思うに到る過程がもっと自然なような気がする。

 ことのついでに、森進一です。
 彼は、「(子供の頃に)音楽に触れるといった経験はあったんですか」という質問には春日と同様、
「いや、全然なかったですね」
 と言下に答えています
(CDボックス『森進一の世界』付属パンフ、『『ひとすじの白い道』)。とはいっても、
「春日八郎さんの『お富さん』とか、ひばりさんの『花笠道中』、平尾昌晃さんの『ミヨちゃん』とか、そういうのをラジオで聴いて、新聞配達をしながら歌っていました」
 そうあとには続くのでしたから、さすがに育った時代は違うのですね。
 ラジオの全国放送網が完成するのは、春日八郎生誕の四年後の'28年。加えて、


「NHKのクラシック音楽崇拝は、レコード会社にとってはありがたい偏見であった。昭和七年までNHKが歌謡曲の放送をしなかったから、大衆はいながらにして流行り歌を聴くには、レコードを買うほかなかったからだ」──斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝・西條八十』

 などという事情もあります。
 蓄音機が普及し、レコードの年間生産量が三百万枚に達するのは'36年。ラジオの加入がこれも三百万世帯を越すのは'37年。春日の少年期には、都市部に育つか、とくに音楽好きの家族がいるのでもない場合には、流行歌を自然に聞く機会はそう多くはなかったものなのらしい。
 春日よりも五年早く生まれた田端義夫は、生まれも伊勢松阪と、本人によれば「田舎」の部類だとのことながら、家族でよく一緒に歌を歌っていたとある上に、六歳では大阪に、十三歳では名古屋に移り、町中の薬屋の丁稚として働き始めています。
 甲府に生まれ、沼津、下関と移り住んだ森進一は、
「自分では〝歌が上手い〟なんていう意識は全然なかった」
 とはいうものの、小四では音楽の時間に前で歌うようにと教師に促され、歌手となるきっかけになったのど自慢にも、知人に「あんまり勧められるので」出ている。
 岡晴夫は、小六のときにやはり教師に前に出て歌うようにと促され、大いにほめられて以来、歌に興味を持ちだしている。三波春夫は、母を亡くした子供たちの気を引き立てようと願う父に、七歳から民謡を毎晩教わって、等々。美空ひばりは言うにや及ぶ。
 幼少時に聞くともなく聞いた音楽と同様、聞いた称賛の言葉と、そこからくる無意識の自信も、母語のように──あるいは、トイレット・トレーニングのように人の身につくものなのではないか?
 逆に、春日八郎のように、学校の唱歌の時間でも「歌はまったく冴えなかったし、いい点をもらった記憶もさらさらない」の類いの負の記憶、または、空白がそのベースにある場合、
(なにかのはずみにふっと、自信を持ち損なっちゃう、みたいなこともあるのではないの?)
 というのがじつは私がしてみたい想像。
 ただ、ここでちょっとひっかかるのが三橋美智也で、この人は、たしか、母親と叔父から早期の特訓を受け、民謡の天才少年で大いに鳴らしていたはず。カバー曲は私はそう聞いてはいませんが、談志の言う通りのことなのだとすると、〝身についた無意識の自信〟はどうしたものか。
(いや、あの人の場合、母語はたぶん民謡で……)
 ごちゃごちゃとさらに考えたりしているうちに、思い出しました。両人がもう大御所になった頃からのレコード・ディレクターが、二人のレコーディングに際しては、


「三橋美智也には決して欠点を指摘して直すことはせずに良い箇所を誉めて誉めてその気にさせて仕上げる手法をとり、春日八郎には逆に誉め過ぎるとそこで止まってしまうので時には挑発的な言辞を弄して演出しました」──斉藤幸二『春日八郎は演歌の名人!』(『昭和歌謡を歌う』付属ブックレット)

 そう書いていたのだった。
 この情報は、一冊目の自伝で読んでいた、
「今でもわたしにはある一面──周囲が反対すればするほど、だんだん気持が固まって、なにがなんでも貫き通さでおくものかといった性格がある。これがたまにひょいと表面に顔を出すのだ」
 こちらとはつながる気がするものの、してみたい想像の方とは、ではない。
(案外、でもない?)
 なんて考えてももちろん答が出るはずもない。こうして思いをめぐらすこと自体がなんだかおもしろい、というだけの話ではあります。


またべつの四半世紀に起きたこと
2017.4.25記

 マイ・ベストに話は戻ります。
 組んでしまってから、ラインナップの〝キナ臭さ〟みたいなものがふっと気になって、試しに年代順にちょっと並べ変えてみると、一番古い『酒は涙か溜息か』が'31年十月、つまり満州事変の翌月に発売の歌。続く十曲は戦時中、八曲は敗戦直後という感じの時期のもの。キナ臭いと感じたのも当然ながら、中では一番新しい『民謡酒場』が'58年、四月の発売だということは、二四曲は、EXテレビのあの回から今までとほぼ同じ期間のうちに作られ、流行りもした歌だったということになる。
 ここから振り返って'91年、三月の頃はといえば、あるものは近く、あるものは遠いにしても、総じていえばさほど遠くない。今の私にはそう思えます。
 較べれば、『民謡酒場』から『酒は涙か溜息か』へと遡っていく四半世紀は、その歌を憶えた時期の私には、過ぎし日露の戦いにとでもいうような、遙かな歴史の中の年月と見え、また、ひどく長くも感じられていたものでした。大半がいあわせなかった年月だからでもあるでしょうが、それ以上にやはり、若かったからでしょうね。現に今見れば、遠くも長くもそう感じないどころではない。御時世もあってのことか、過ぎし日露さえ今のこの時間と地続きのもの、と妙にリアルに感じたりもします。
 録音時期からみれば、二十四曲は、時期不明の四曲をのぞけば、'70年から'77年にかけてのもの。歌はレコード会社とオリジナルの歌手に属する、という枠組が崩れ始めるのは'70年前後から、ということと声の印象からすると、不明の曲もおそらくはほぼ同じ時期、つまり、四十代半ばから五十代初めにかけてのものではないか、と思うのですけれど、その時期、その年齢の春日八郎にとっては、
(それぞれの歌は、どの程度に遠く、または近く感じられる時代の歌だったのか?)
 またしてもごちゃごちゃ想像しているうちに、また、思いつきました。春日八郎略年表ならもう作ってあるわけだから、あれとちょっと混ぜたらどうかしら──と。
 で、ざっと書き出してみたものが以下。

1931年 9月 満州事変勃発(春日八郎、六歳)。
    10月 『酒は涙か溜息か』(藤山一郎)発売。
1934年 2月 『急げ幌馬車』(松平晃)発売。
    3月 『綏芬河小唄』の元歌『恋はひとすじ』(豆千代)発売(替歌ヒッ
       トは三七年以降)
1936年 2月 二・二六事件勃発。
    10月 『男の純情』(藤山一郎)発売。
    12月 『女の階級』(楠木繁夫)発売。
1937年 3月 『マロニエの木蔭』(松島詩子)発売。
    4月 会津中学(現・会津高校)に入学(十二歳)。
    7月 盧溝橋事件勃発、日中戦争始まる。
1938年 5月 国家総動員法施行。
    9月 映画『愛染かつら』封切。主題歌『旅の夜風』(霧島昇、 松原
       操)が大ヒット。この頃、町で見た『愛染かつら』の主題歌を覚え
       て口ずさみ、父に叱責されるが、 懲りずに学校で広め、仲間と大

       唱。歌に関する少年期唯一の思い出となる(十三歳?)。
    秋頃 父鬼佐久、心臓病により死去。
1939年 1月 『上海ブルース』(ディック・ミネ)発売。
    3月 家計の負担を減らすために中学を中退し、異父兄を頼って上京。
       変電所に仮雇いの職を得ると共に、早稲田工手学校(現・早稲田大
       学芸術学校)に入学(十四
歳)。
    6月 男子の長髪及び女子のパーマネント禁止を閣議決定。
1940年 6月 『目ン無い千鳥』(霧島昇、ミス・コロムビア)発売。
    8月 「贅沢は敵だ!」のスローガン登場。
    10月 ダンス禁止令施行により、国内のダンスホールが閉鎖される。
1941年 6月 浅草で見た藤山一郎ショーに衝撃を受け、「音楽で身を立てようと
       思い決め」る(十六歳)。
    7月 工手学校を中退して東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。
       『パラオ恋しや』(岡晴夫)発売。
    11月 『満州里小唄』の元歌、『雪の満州里』(ディック・ミネ)発売。
    12月 米英に宣戦を布告、太平洋戦争に突入。
1943年 2月 『勘太郎月夜唄』(小畑実)発売。
    5月 アッツ島で日本海軍の守備隊玉砕。
    5月 上野動物園で二五頭の猛獣、毒蛇を毒殺、うち、象は餓死に到ら
       せる処置となる。
    7月? 流行歌の歌い方を学ぶため、東京声専音楽学校(現・昭和音楽大
       学)に転校(十九歳)。
       同じ頃、「その他大勢の一人」としてムーラン・ルージュ新宿座で
       初舞台を踏む。
1944年秋頃 応召、会津若松の陸軍歩兵二十九連隊に入隊。
    11月 パラオ諸島ペリリュー島で日本軍守備隊、壊滅。
1945年?月 広島からフィリピンへと向う途中で座礁、台湾に漂着(二十歳)。
    8月 台湾で敗戦を迎える。
    11月 復員し、一旦帰郷。
1946年 6月 『東京の花売娘』(岡晴夫)発売。
    10月 上京してムーラン・ルージュ(当時の名称は「小議会」)に参
       加、歌手活動を再開(二二歳)。
1947年 2月 『夜霧のブルース』(ディック・ミネ)発売。
    6月 『港に赤い灯がともる』(岡晴夫)発売。
    7月 キングレコードの第一回歌謡コンクールに合格、ムーラン・ルー
       ジュを退団。準専属は無給待遇であったため、新宿の聚楽への月
       二、三度の出演以外に収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続
       く。
1948年 4月?私生活上でも一波乱あり、当時大流行のジャズを学ぶべく横浜に移
       るが、「肌に合わない」と知るだけの結果に。この時期、当座の勉
       学資金を稼ぐために、闇商売に手を染める。重なる失意に一旦は帰
       郷、暮に上京し、再び聚楽の舞台に立つ(二四歳)。
1949年11月『かりそめの恋』(三條町子)発売。
       聚楽にたまたま出演した江口夜詩の門下生、桧坂恵子(芸名松宮恵
       子、のちの春日夫と知り合い、意気投合。細川の一身上の都合から
       レッスンを継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子人)と細川
       の仲介により、江口夜詩に師事(二五歳)。
1951年 3月 『船は港にいつ帰る』(岡晴夫)発売。
    11月 デビュー曲『赤いランプの終列車』発売(二七歳)。
1953年 8月 『港のエトランゼ』(岡晴夫)発売。

 翌年の『お富さん』の空前の大ヒットをはさんで続くのが『君は海鳥渡り鳥』('55)他の六曲。でもまあ、そっちはもう大スターになったあとの歌だしね? 年表だって長くなったしねというので以下はここでは省略とします。


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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