♪春日八郎アーカイヴ♪

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その対はない
2017.4.7記

 前回半端、かつ恣意的に引いてしまった「港町横濱 よもやま日記」(横浜の名物出版社、春風社の社長サン、兼エッセイストのかたのブログ)。
 引用元のエントリーは、
「面白いCDを見つけました。『春日八郎 三橋美智也を歌う』これは聴かずにいられません」
 に始まる一文で、当該箇所の前後もちゃんと補えば、
「いやはや、これはたしかに春日八郎の歌の世界。三橋の声がやさしく包み込むような抒情なら、春日八郎の声は実直な抒情とでもいえようか」
 つまり、三橋美智也と対比しての言葉でしたし、一読しておおと思ったのも、続く、
「ことばは意味を持っていますが、このふたりの声は、『はあああ』と発しただけで、色や風景まで見えてくるから不思議です」
 その部分の方でした。「はあああ」との表記が楽しい。なにより、「言葉は……」の前置きがいい。これは放置したままの例の謎とも関係があるかも、と考えたりしたのでしたが、先日目にしたべつのブログの中には、

 
「ラジオ深夜便を付けっ放しで眠っていたが、流れていた春日八郎特集がウタうますぎて目覚めてしまった。うまい人はどの時代にもいるだろうが、なんかこう……知られざる日本の風土のディテールの隅から隅まで思い描いてしまうような歌声」──齋藤芽生「隠花微温室/画家 齋藤芽生の日記」

 ひどく説得力のあるそんな記述もありました。やはり、なにかその辺? 歌が流行した時期と歌が呼び起こしたものが属する時期の一致は単なる偶然で、よって、強制的追想の主因でもなくて、とかなにか。
 でもまあ、それはともかく。『目ン無い千鳥』や『男の純情』、『勘太郎月夜唄』などなどが呼び起こすものについては、話はごくシンプルです。聴けばたちどころに聴きおぼえた時期にいた官舎の居間が、南に向いた窓から見えていた大きな富士が、秩父の連山が目には「浮かんで参りやす」。そして追って浮かぶのは、その家であった些細なようなことどもの記憶。居間で打ち揃って聞く場面の記憶もですけれど、出支度を急かすときに、
「急げ、幌馬車」
 節をつけて母がちょっと口ずさみ、
「ワンさん待ってて頂戴ネ」
 と父も応じて、などという一コマもあり、募る、
(なんと、懐かしいこと……)
 その思いのうちには奇妙なことに、私自身は存在しなかった日々への、ヴァーチャルな、みたいなものも相当混入している。やりとりの向こうにちらちらと見える、満州での日々への──その地で生まれて引き揚げ後に死んだと聞く上の姉だの、やはりその地で熱心に父が見たと聞く、いくつかの洋画だの(「ペペ・ル・モコ! ツァラ・レアンダー! ああ、よかったねえ……」)、折々のはやり歌だのへの〝懐旧の念〟みたいなものが。
 世代には合わないこの歌への嗜好のどこかには、父や母になり代わって往時を記憶し続け、ちゃんと記憶している証拠には、
(これこの通り)
 とばかりに懐かしみもし続けよう、というオブセッションがどうもあるらしい。案外、事の始めからその要素はあったかも、というのはつい最近初めて思ってみたことなんですが(場所が場所なので、べつのややこしい思いも当然混入はしていますが、ここでは措いて、ということで)。

 まあ、そんな次第で、戦前、戦中から敗戦直後にかけてのその種の歌は、レコードの時分から多少集めもし、編集もしてきています。CDに新たに焼き直したものだけでいっても、美空ひばり版、森進一版、藤圭子版に青江三奈版、憂歌団とちあきなおみのコンピレーション盤その他。それぞれに大いに気に入ってはいるものの、曲によっては、まだ決定版がないという気のするものもある。オリジナルの歌唱、またはアレンジが私の好みとは違い、かといって、これといったカバーもというようなもの。それなりのカバーはあるものの、もう一つかな、といったもの。
(春日八郎、いいではないの?)
 思った当初に私がまず期待をしたことは、そのあたりの不満の解消、または軽減で、
(『流浪の旅』とか『燦めく星座』、『急げ幌馬車』なんかはいいのじゃないかしら、すごく)
 それに『港の見える丘』や『星の流れに』、『ゴンドラの唄』あたりだったら、いいカバーは何ヴァージョンあっても等々。
 そして集めて聴きまくって選んだ結果、右の中で入れたのは『急げ幌馬車』だけだったのでした。
 先に書いた事情もありますし、たまたまか、ではなかったか、半分は歌っていなかった。歌ってはいた『星の流れに』と『ゴンドラの唄』は、ちょっと、もう一つ。『港の見える丘』にしても、もし歌っていたとしてももう一つじゃなかったか? と思うんですね。
「春日八郎には退廃、合わない。不倫もねえ……。合わないねっ」
 と、〝十歳ほど年長さん〟は言う。五種類焼いた方のカバー盤の最後のをちょっと送ったら、こんなのもたまにはと入れた『大阪の女』がバカに不評で──という流れの上での断言でした。
 たしかにまあこの歌は、四度も出てくる「わ」の「あかへんわ」以外の「わ」がよくない。もとの歌詞自体がそうで、四番での「わ」なんかはひどく嘘くさく、せっかくの終助詞の春日が、とは私も思います。でも、
(いうほど退廃? それに不倫? 『大阪の女』って)
 違うと思うけど。それにちょっとよくはない? とても上手に口説かれて、つい「がまんできずに」愛したの、って。男の押しにではない、あれは裡なるムラムラに負けたのだった、飲んでもいたし──と正直に認めているところがいい。助詞の問題さえ措けば、こういう女の歌ならそういやじゃない、だといい、と男が身勝手に夢見て書いた詞なのだとしても。
 でも一般論としてはたしかに退廃的は合わない。
「もっと一生懸命だというか、一途なところのある恋の方が合いますけどね」
 一途が裏返ってニヒルになって、結果、退廃的になる。あり得ることかもとは思いますけれども、こと、春日八郎についてなら、ないなという気がします、一途と退廃というこの対は。今一だった『星の流れに』は退廃、けだるいの部類だし、今三だった『船頭小唄』ならさらに退廃。退廃には、あの張りつめた声は合っていない。合わないカバーでの春日八郎のよくなさ加減は、
(だからなんでしょ)
 という話にして私は終わりたい。
 でもどうも、なんだかそれだけではないらしいのですね。

「あんまり歌、上手くないんだよ」
2017.4.21記

 youtubeではもうずいぶん聴いていた。『神髄』だけはやっと手に入れて、あともっとどんな音源を探すべきなのか、とネット上を探索してまわっていたような頃、

「他の歌手のカヴァーだと『おいおい……』と思うほどの下手さだったのが謎だが、オリジナルの歌は当たり前だが巧い! 素晴らしい!」──suudarabushi「日々是口実」

 とあるのを目にしてええっ、と思ったことがありました。
(だっていいわよ、『東京の花売娘』も『夜霧のブルース』も)
 あれもいいしあれもよねとその折にはスルー。『星の流れに』や『カスバの女』を聴いたときにも、合わない歌ってあるからねと思った程度の話でしたが、それから三月後に五枚組LPボックス、『日本の歌 明治・大正・昭和はやりうた』を入手。一枚目、二枚目と聴き進むうちに、
(もしかしてこのこと? おいおいって)
 と私は例のブログを思い出し、ことのついでに、
「君のは、どうも唱歌を聴いてるみたいでねえ」
 と言われたという自伝の一節も思い出しました。デビューできずにいるときに、望みはあるのかと必死の思いで「専門家」に──たぶんキングのディレクターかだれかに訊ねたときの返答であったはず。一、二枚目では、たしかに『青葉の笛』等、その種のものも歌ってはいますけれども、
「レコード会社の専門家の耳は、異常なほどに鋭く、こわいのだった」
 とも自伝にはある。さるを、こはいかに。
 '77年の発売だとはいえ、うち三曲はかつての自身のヒット。二五曲は'62年から'73年にかけてのアルバム五枚からの再収録で、いい出来のものはほぼそちら、ということからすると、この録音時はよほど乗らなかったのか。これはとてもいい『かりそめの恋』『マロニエの木蔭』等の四曲も、
(じつは、べつの時の録音だったとか)
 想像したくなるほど、いくつかの録音には一曲を貫くナニカ、パッションとまではいわなくたって、イモーションとか、そんなものがないようになんだか聞こえる。投げてというのでもなく、どういうか、なにか、困ってでもいるような感じなのですね。曲自体がおもしろくもない『ノルマントン号沈没の歌』とかはまあどうでもいい。でもなんで、『船頭小唄』がこうなるわけか、
(そもそもなんで、女声コーラス入れちゃうの、こういう歌に)
 その『船頭小唄』は、七二年の芸術祭大賞受賞のリサイタル、『演歌とは何だろう』でも、七五年のリサイタル、『さらに演歌を見つめて』でもオープニング・ナンバーとして歌われています。そのどちらの場合にも、一番はザ・プリティーズが名の通りにキレイに歌い、御本人は二番から登場。ナレーションをはさんでまた三番へと続く。その間ずっと、コーラスは流れ続けてという形のものでした。
 リサイタルならまあ話はわかります。芸術祭参加作品でしたしね? 二度目は二度目で、ほら、あの続きですというご挨拶と受け取ればいい。なぜ、スタジオ録音でもだったのかがよくわからない。なぜ、スタジオ録音でもなのかがわからない。しかも、歌もよくない。〝終助詞の春日八郎〟でもないし、パイライトのパぐらいも──と、遙かな昔、『エルヴィス・ナウ』で『ヘイ・ジュード』を聞いたときに似た気持になってくる。なにかの間違いだと思いたい、でも無理みたい、という。

 そんな折りも折り、届いた本が、『談志絶唱 昭和の歌謡曲』。
 交際があったと読んだ、裏表紙には『別れの波止場』の古いジャケットの写真もあった。なにかしら、書いていないはずはないだろうと注文していた一冊です。すぐにぱらぱらとめくって見れば、以下のようなエピソードが目に飛び込んで、シンクロニシティー? とちょっと驚いたのでした。
 たまたま会ったのか、一緒に行ってだったか、とにかく小倉のあるクラブで二人で飲んでいた。プロはこういう場面では歌わないのがルールだと承知はしながら、
「ねえ、ここで一曲唄ってくれませんか」
「やだよ、俺は」
 そんなやりとりとなり、本人の弁によれば、酔っていたからなおも「クドクドいったのだろう」というような次第で、この場合のべつのルールにのっとって、持ち歌ではない歌を結局彼は歌った。
「その唄は、『君は心の妻だから』。東京ロマンチカというコーラスグループが唄った歌だと思う。これが下手なんだ。あんな歌の上手い春日さんが見事に下手なんだ。わざと下手に唄っているのではない。普通に唄ってたが、これが下手、ヘタだ」
 それでも「客は素人」、拍手、大喝采は送られたものの、席に戻ってきた彼に、談志は、
「酷いね、どうも、下手だね」
 と言う。
「〝うーん、俺、あんまり歌、上手くないんだよ〟といったか、〝人の歌はあんまり上手く唄えないよ〟といったか、その両方が混ざったような答えをしたのを想い出します」
 大体、そういう話。参院選出馬騒動の一件といい、この件といい、言下に断る、みたいなことが苦手な人であったのか? という気もしますけれども、談志のために、べつの本
(藤浦敦『三遊亭円朝の遺言』)の中にあった以下のエピソードもここに記すこととします。
 '79年の五月に、『新籠釣瓶─立川談志人情噺集』という本が出て、著者、藤浦敦は「年来の親友」であった春日八郎を出版記念会に呼んだ。大の寄席好き、落語好きでもあった春日は、
「初対面の立川談志にしきりに、『落語をやってくれ』とせがんだ。談志は『今日は自分の本の会だし、こういう席で落語はやりにくい』と躊躇した。春日は『なら小ばなしをやってくれ』という。談志は相手がかねて敬愛する春日なので、やりにくかったが小ばなしをやった」
 まるで子供は二人ともであった、ということで、とにかく、いたく感激した春日は返礼にとアコーディオンを借り、『別れの一本杉』など数曲を弾き語りして会場を大いに沸かせ、
「これから春日と談志の交際が始まった」
 藤浦はそう書いている。断り切れなかった理由はその辺だとしても、やはり、不思議という思いはいろいろ残ります。それからどれだけ経ってだったか、談志もテレビで、


「人の歌を歌ってうまい歌手とへたな歌手といるでしょ。春日さんなんか大下手なんですよ。三橋さんも下手なんだよ」──立川談志「EXテレビ」

 なんてわざわざ言っている。上岡龍太郎、山城新伍と、バタヤン・ファン三人で田端本人を囲んでという番組の中での、田端サンのカバーはいい、という話の流れでの発言。談志は三橋美智也の大のファンなのでもあって、無論、悪口ではない。たぶん、よくよく不思議なことと思えたんでしょう。
 youtubeで見た古い番組でしたが、田端義夫が、
「こんど出す自叙伝は、オース、オース、オース」
 と一言宣伝をしている『オース! オース! オース! バタヤンの人生航路』は、'91年、三月に出版の本。ということは、春日八郎死去の年の春まだ浅い時期の録画であるはずで、もちろん談志は元気。山城新伍にも田端義夫にも衰えの気配は見えず、上岡龍太郎も引退まではかなり間のあった時期の映像なんですね。
 そこからこの今まではもう四半世紀。年月が過ぎていくののなんとまあ、早いことか……。

個性が強すぎちゃって?
2017.4.24記

 前回、
「三橋さんも下手なんだよ」
 そう記した箇所をあらためて確認したら、「も」と「下手」のあいだに「おお」があるような気がしてきました。「春日さんなんか」のあとの「大」よりは大分軽く言っている、というのは程度の差の表現か、単に、すぐ前にある助詞の母音との関係からか。
 それはともかく、談志は、「下手なんだよ」のあとには、
「自分の個性が強すぎちゃって」
 と考えついたらしい〝理由〟を言い添えている。でも、たとえば、個性的という点では人後に落ちない森進一のカバーはとてもいいのだし、
(そもそも、そこで現にほめている田端義夫自体、個性的でしょ?)
 と私は思います。
『オース! オース! オース!』の中で、田端義夫は、彼独自の唱法の誕生について、こう説明しています。
 毎夜、橋の下で一人練習を続けるうちに、初めは所詮「ものまねの歌い方」であったのが、
「ある夜、家の中で歌ってみて驚いた。自分で気がつかないうちにまねが取れ、カドが取れ、『田端流発声法』が自然に出来上がっていた」
 ほどなく、彼はポリドールレコードが開催した名古屋のアマチュア・コンクールに出場。その唱法で歌って見事優勝し、プロ歌手をめざして上京、レコード会社のテストにも一度で合格すると、デビュー曲を皮切りにヒットを連発。二十歳を待たずにスター歌手となっています。準専属となってからも丸四年間レコードを出してはもらえなかった春日八郎とは、またずいぶんな違いなのですね。十三の頃、聞き覚えた浪曲を銭湯でうなり、近所中の評判にというエピソードにしても、「うまいといってほめてもらった記憶もない」という春日とは大違いだし、なにより、歌手になろうと思うに到る過程がもっと自然なような気がする。

 ことのついでに、森進一です。
 彼は、子供の頃に、
「音楽に触れるといった経験はあったんですか」
 という質問には春日と同様、
「いや、全然なかったですね」
 と言下に答えている
(CDボックス『森進一の世界』付属パンフ、『『ひとすじの白い道』)。とはいっても、
「春日八郎さんの『お富さん』とか、ひばりさんの『花笠道中』、平尾昌晃さんの『ミヨちゃん』とか、そういうのをラジオで聴いて、新聞配達をしながら歌っていました」
 そうあとには続くのでしたから、さすがに育った時代は違うのですね。
 ラジオの全国放送網が完成するのは、春日八郎生誕の四年後の'28年。加えて、


「NHKのクラシック音楽崇拝は、レコード会社にとってはありがたい偏見であった。昭和七年までNHKが歌謡曲の放送をしなかったから、大衆はいながらにして流行り歌を聴くには、レコードを買うほかなかったからだ」──斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝・西條八十』

 などという事情もあります。
 蓄音機が普及し、レコードの年間生産量が三百万に達するのは'36年。ラジオの加入がこれも三百万世帯を越すのは'37年。春日の少年期には、都市部に育つか、とくに音楽好きの家族がいるのでもない場合には、流行歌を自然に聞く機会はそう多くはなかったものなのらしい。
 春日よりも五年早く生まれた田端義夫は、生まれも伊勢松阪と、本人によれば「田舎」の部類だとのことですが、家族でよく一緒に歌を歌っていたとあるうえに、六歳では大阪に、十三歳では名古屋に移り、町中の薬屋の丁稚として働き始めています。
 甲府に生まれ、沼津、下関と移り住んだ森進一は、
「自分では〝歌が上手い〟なんていう意識は全然なかった」
 とはいいながら、小四では音楽の時間に前で歌うようにと教師に促され、歌手となるきっかけになったのど自慢にも、知人に「あんまり勧められるので」出ている。
 岡晴夫は、小六のときにやはり教師に前に出て歌うようにと促され、大いにほめられて以来、歌に興味を持ちだしている。三波春夫は、母を亡くした子供たちの気を引き立てようと願う父に、七歳から民謡を毎晩教わって、等々。美空ひばりは言うにや及ぶ。
 幼少時に聞くともなく聞いた音楽と同様、聞いた称賛の言葉と、そこからくる無意識の自信も、母語のように──あるいは、トイレット・トレーニングのように人の身につくものなのではないか?
 逆に、春日八郎のように、学校の唱歌の時間でも「歌はまったく冴えなかったし、いい点をもらった記憶もさらさらない」の類いの負の記憶、または、空白がそのベースにある場合、
(なにかのはずみにふっと、自信を持ち損なっちゃう、みたいなこともあるのではないか?)
 というのがじつは私がしてみたい想像。
 ただ、ここでちょっとひっかかるのが三橋美智也で、あの人はたしか母親と叔父から英才教育を受け、民謡の天才少年で鳴らしていたはず。カバー曲は私はそう聞いてはいませんが、もし談志の言う通りのことなのだとすると、〝身についた無意識の自信〟はどうしたものか。
(いや、あの人の場合、母語はたぶん民謡で……)
 ごちゃごちゃとさらに考えたりしているうちに、思い出しました。両人がもう大御所になった頃からのレコード・ディレクターが、二人のレコーディングに際しては、


「三橋美智也には決して欠点を指摘して直すことはせずに良い箇所を誉めて誉めてその気にさせて仕上げる手法をとり、春日八郎には逆に誉め過ぎるとそこで止まってしまうので時には挑発的な言辞を弄して演出しました」──斉藤幸二『春日八郎は演歌の名人!』(『昭和歌謡を歌う』付属ブックレット)

 そう書いていたのだった。
 この情報は、一冊目の自伝で読んでいた、
「今でもわたしにはある一面──周囲が反対すればするほど、だんだん気持が固まって、なにがなんでも貫き通さでおくものかといった性格がある。これがたまにひょいと表面に顔を出すのだ」
 こちらとはつながる気がするものの、してみたい想像の方とは、ではない。
(案外、でもない?)
 なんて考えてももちろん答が出るはずもない。こうして思いをめぐらすこと自体がなんだかおもしろい、というだけの話ではあります。


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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