♪春日八郎アーカイヴ♪

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さらに年表についての話
2017.4.29記

「そんな非常時に流行歌手になりたいなど、はたの人々から見れば正気の沙汰ではなかったでしょう」───春日八郎「私の歳時記」

 本人も言う通りのことで、年表を見れば見るほど、よくまあ、こんな時代に、そんな夢を本気で見たものだと思えてきます。どんな時代にも、夢を追わずには生きていきにくいタイプの人たちはいる、というだけのことかもしれない。現にこの今も、似た夢を本気で見ている人はいるのでしょうしね。ただ、彼の場合には、本人が今が非常時であるということも、工手高校にそのままいれば徴兵免除の特典があるのもよくわかっての上での選択。加えて、突然の決心までは「うたのうの字も知らなかった」わけでもあるし、「芸能人など非国民呼ばわりされたひどい時代」なのでもあります。
 にもかかわらず、当然、猛反対する兄夫婦には、
「あんたがあの時、兄さんに喰ってかかった顔ったら、そりゃ鬼みたいだったわ。それにしつこくてねえ……」
 兄嫁がのちに述懐するほどに頑強に主張、事後承諾のかたちで結局押し切っている。
 そういえば、十五周年のリサイタルでの、フル・オーケストラをバックにした「シンフォニック歌謡」の試みにしても、無謀と見た周囲の説得にもかかわらず「『どうしてもやらせてほしい』と頑強に主張してゆずらなかった」
(矢野亮「『春日八郎歌謡生活十五周年記念リサイタル』のLPに寄せて」)との話であった模様。
 後年よく言ったという「俺は、気が弱いから」とはなんの話なのか。
 親しくつきあったと聞くのが金田正一、力道山、藤浦敦に立川談志、村田英雄といずれ劣らぬ、自己主張の強烈そうな人々であるのはどういうわけで、
(なんで、それで、断る方は苦手らしいのか?)
 などという話ではない、年表の話、時代と時間についての話なのでした。
 レコードの発売時期については、たぶん、問題はとくにない。手持ちの本にも信頼できるいくつかのサイトの中にも何々年の発売だとあり、それぞれの間に矛盾もない。日本近代史上のできごともまた同様で、ややこしいのは、春日八郎個人に関するできごとの時期の特定。すでに書いたように、春日八郎関係の本は大変に少なく、また、市販のどの書籍にも年表らしきものは載っていない。したがって、当サイト中の略年表は自伝中の記述、各種事典、レコードのライナー・ノウツ等をもとにして作成したもの、しばしば、元号を西暦へと換算しつつ書いてみたものです。
 どういうわけか、引算が、それもとくに時間に関する引算が私はかなり苦手です。釣銭の勘定、花札(大連花のルールによる)の点の勘定はむしろ得意であることからすると、目視できないものの数の計算がだめという話なのかもしれない。あるいは子供の頃に「いつからいつまで」の「から」の概念を飲み込みそこねたせいであるのかもしれない。原因はともかくとして、それでまずは四苦八苦。しかも、自伝中には起きた年、時日がいつかが明記されていないできごとが多いのです。それはなくていい、と思う金額なんかは妙にちゃんと記されているのですけどね。

 スターの自伝には、大雑把にいって、

  一、本人がほぼ一人で書いたもの。
  二、本人が書き、ライター、または編集者が相当に手を入れたもの。
  三、本人から話を聞いて、ライターが書いたもの。
  四、資料を集め、周囲の関係者に話を聞いて、ライターが書いたもの。


 以上四種と、それぞれの中間ぐらいにあたるものがあるかと思います。
 高峰秀子、ローレン・バコール、ブリジット・バルドー等、数少ない例外以外は二以降、多くは三か四のあたりでしょう。
 スターは多忙。一方、本を書くのはかなりの時間と適性とを要する作業。高峰秀子、バコールの文才は言わずもがな。バルドーの自伝は引退後かなり経ってから書かれたものでしたけど、これなら、ライターが書いていてくれた方がと思った記憶がたしかある。
 読む側の都合をいえば、一を無理に目指さないでいてくれてよく、そのふりもべつにしなくっていい。四は論外として、二なら書いたと堂々と言えるレベルだし、三にしたって、した話の量と密度次第では著者とみなしていい場合が多々あるのでは、と思います(二と、三に似た作業を何回かはした結果としてそう思います。いろいろな意味で、ライターの名は併記した方がいいと思いますけれども)。
 その上で、という話になるわけですが、春日八郎の二冊の自伝は、四ではまずない。本人以外に知りようのない細部を大変多く含む上、ライターであれば、書かない方が無難だと判断しそうな部分も相当多い。文章がいかにもライターっぽい前のものは三、あとのは、前のものをベースにした上での二と三の中間、やや二寄りかな、というのが目下の想像。主なソースが資料なら起きにくい時期的矛盾も少なくとも二箇所ありますしね?
 その一は、『旅の夜風』にまつわる話。町で『愛染かつら』を見、その主題歌をいつかおぼえて口ずさみ──というこの一件は、どちらにも小学校時代の記憶として語られているのですが、映画『愛染かつら』の公開は'38年九月十五日。中学校入学の翌年の秋のことです。
「流行っていただけに、その後もラジオで流れていたのだろう、なんとなく歌をおぼえて」
 とあるラジオは自宅ではなく、町のラーメン屋のラジオ。映画を見たのちも「町にはちょくちょく出かけて」いくうち、いつのまにかおぼえたものとあります。父、鬼佐久の死は同じ年の「秋も深まった頃」。つまり、そんな日々のせいぜい一月ほどあとだった、という話でもある。
 デビュー時には三歳サバを読んでいたらしいとはいえ、二冊目の奥付には大正十三年生まれとあるのだし、どちらにも、中学への入学は「昭和十二年(1937年)」と記されている。この不整合は、たとえば父の死の時期等と近過ぎることからくる無意識の錯誤の類いか、単なる記憶違いか。
 その二は、私生活上の〝一波乱〟の件。手短に書けば、中野区は野方の下宿先の娘と恋仲になり、彼女が懐妊。結婚を望みはしたものの、激怒した親に叩き出されてというできごとですけれど、「私としても初めて」の相手であったとある何ページか前の箇所には、「太平洋戦争が終わる時点まで、つまり二十一歳まで、私は童貞だった」と書かれています。年表にもある通り、横浜行きは'48年。前後をどう読み直してみても年は合いません。彼がその家に下宿するのは準専属になって以降で、というよりも、そもそも、復員後の再上京自体が'46年の十一月。二二歳の誕生日の直後のはずで、
(もしかして、時間の引算、私より苦手?)
 でもこういう、意味不明の矛盾があるぐらいの方がむしろほんとのことっぽい。そんな気がするのはファン心理というものか、引算がどうも不得手組の親近感によるものでしょうか。

港々のリラの花
2017.5.1記

 面罵されたあげく、中野のその家を飛び出たという夜については、月等の記載はとくにありません。
「春雨が冷たかった。濡れた梅の香が鼻をついた」
 とはあって、三月かとも思えますけれど、その足で勝手知ったる新宿へと向かい、街中、到るところで流れている「ジャズ、ジャズ、ジャズ……」を耳にするうちに、
(横浜へ行ってジャズを身につけ、一発、ジャズ歌手をねらってやれ!)
 突如思い立って横浜へという時点から、
「晴れない私の精神状態、生活状態もよそに、リラの花咲くいい季節だった」
 この一節までには、読んだ限りでは、日は二日となさそうに思える。三月から咲き出すリラはなくても、残んの梅なら四月にもある。ぎりぎり時期は合い、その分、四月も前半までのことと特定できそうです(無論、記述に記憶違いがなければの話ではあります)。
 そんなわけで四月もまだ早い頃、二三歳の春日八郎は、というよりは歌川俊は、降る春雨の中を、栄養失調で「痩せこけた」体でまず新宿まで歩き、今度は品川駅を目指して歩きに歩いた。もしかするともっと先まで徒歩で行ったのかもしれない。なにしろ、デビュー曲がもうヒットし出していた五年後にさえ、本社からNHKまで歩いて行って局のディレクターを驚かせているぐらいですから。


「キングレコードは文京区の音羽町にある。歩くには少々どころか大変に遠い。あとでコッソリ聞くと、『電車賃が足りなくてネ』と彼は頭をかいた」──川口幹夫『冷や汗、感動五〇年 私のテレビ交友録』

 やはりかなりぎりぎりな分、時期を特定しやすいのが次のロマンスの始まりの時期。
 四九年、新宿の聚楽に戻って数ヶ月が過ぎた頃、ピンチヒッターとして若い女性歌手、のちの恵子夫人が初めて聚楽に出演することになる。その折に彼女が歌い、
「ブルースってむずかしいのに、よくうたえるなあ」
 彼を感心させたのが、『かりそめの恋』。自伝では、どちらにも映画『肉体の門』('48)の主題歌となっていますが、これは『愛染草』('49)の主題歌の間違い。映画の公開に合わせて発売されて、大ヒットとなった歌です。発売は十一月。出会いは当然それ以降であったということになる。
 一週間彼女は歌い、その間に二人は早くも意気投合。やや問題なのは次の機会の方で、十二月に彼女は再び聚楽に出演、「二ヶ月ぶりに」歌うことにと『ふたりの坂道』には書いてあります。
 でもまあ、「クリスマスをはさんで」ともいうのですから、もう押し詰まった時期の出演。映画の公開は前月の九日ですし、「合わせて」というからには十一月も早めの時期であったのかもしれない。まあ、単に、二ヶ月と感じる一月半か一月であった、ということかもしれませんけど。
 その『かりそめの恋』も、聚楽でよく歌ったという岡晴夫の持ち歌──出来の良さについ、あれもこれもと入れてしまった六曲も、彼の青春の思い出の歌といってよさそうです。『パラオ恋しや』は、音楽学校入学のまさにその月に出た歌、『港のエトランゼ』にしてもデビュー翌年の八月に発売の歌。岡晴夫の前座を初めて務めたのは同じ年の「秋の深まるころだった」ということは、ステージでは、最新ヒットとして大いに歌われていた可能性が高い。
 だけではない、岡晴夫は、
「いやあ、もうね。着古した紺のステージ・スーツ。白い、くたびれた靴。シワだらけのネクタイ。ともかく何ともいえないカッコウだったよね、その時は……」
 当時の司会者、西村小楽天がのちに語る春日の姿を袖から見、
「あのネクタイじゃ、かわいそうだな」
 と、メッセージを書き添えた自前のネクタイを与えた上に、届いた花輪のいくつかを「春日八郎さん江」と黙って変えてもくれた、という心温まるエピソードのある先輩。しかも、『街の燈台』('53)吹込みの頃には、自伝にも、
「長い間、岡晴夫先輩の持ち歌をうたってきたせいで、自然に岡さんと同じうたい方になっていたのだろうか」
 とあるように、作曲した吉田矢健治が驚くほどに声も歌唱も似て聞こえたものであったといいます。名盤、『春日八郎 岡晴夫を歌う』('77)が結構遅い時期のものなのは、この辺となにか関係があったか、ではなかったか? わかりませんが、所収の曲は三橋美智也のカバー同様、春日八郎自身のオリジナルのように見事に歌われています。ただ、不思議なのは、『パラオ恋しや』『港のエトランゼ』『港に赤い灯がともる
(*)』がこのアルバムには入っていないこと。だけではなくて、わかっているどのアルバムにも収録されていないのですよね、この三曲は。
(『パラオ恋しや』は軍歌アルバムで、あとのはシングルでとか?)
 そう思ったのも外れ、調べてみた限りでは、一度もレコードにはならなかったものなのらしい。曲も歌も、どれもとてもいいだけにこれはちょっと謎。まあ、売り出し中の自社の歌手の衣装ぐらい、なぜ買ってやらない? 交通費にしたってさ、とかいう方も私にはかなりな謎なんですが。


 '48年の横浜では、「裏町の小さな公園」で咲き、別れてきた人を彼に思い出させていたリラは、十年ほど前の上海では、街角の月の光を浴びて散り、やはり、別れた「君」を「僕」に思い出させている。
『上海ブルース』は、その昔、父が口ずさむのを聞くうちにいつかおぼえた歌の一つでした。毎度、「リラの花散る今宵は」止まりであったのは、そこからあとは父には難し過ぎたせいなのかもしれない。下手の横好きで、音程なんかは結構怪しい人でしたしね。
 リリースは'39年一月。父は、満鉄の見習いから正社員にやっと昇格、給費生の身分で大連中学に通っている。春日八郎はまだ坂下の町にいて、中学の中退と上京、就職を真剣に検討し始めている。大卒五年目のジャズ歌手、ディック・ミネはといえば、上海で、神戸で、さまざまな国籍のあまたの女性にもてまくっている。
 父は決して歌わず、ディック・ミネは甘く、耳にまとわりつくように歌う「別れたね」の箇所で、刺さるようなハイトーンを聞かせているのが春日ヴァージョン。低音部の方が多い歌だからでしょうか、あとは抑えめ、抑えめに歌われていて、そのだけ分余計にどきっ、としてしまう。
 詞は北村雄三(島田磬也の別名)、曲は大久保徳二郎。同じコンビが戦後に書いて、同じディック・ミネが歌った『夜霧のブルース』とも雰囲気が近いだけに、初めは、入れるのはどちらか一方をと思い、曲は上海の方が好きではあるものの、短い。歌なら夜霧の方がなどと迷ううち、いっそのことと、ワンセットとして並べて置いてしまって、『江差恋しや』から五曲続く港物の締めとしました。この流れ、悪くないのじゃないかしら──と、また少々自画自讃。
(これは、あれの続きなんですよ)
 という暗号のように共通するキーワードをいくつも持つ二つのこの歌。リラは、あとの歌では、花束にでもなっていたものか、「あの子」の手で、立ちこめる四馬路の夜霧の中に(あるいは海に?)投げ込まれてしまっています。


*のちにLPボックス『春日八郎大全集・歌こそ我が生命』('81)のディスク16第一面に収録と判明。

東京の空、青い空
2017.5.4記

 上海、夜霧のあとは、ブルースつながりで『かりそめの恋』。そして『マロニエの木蔭』と洋物っぽい女歌二曲をはさみ、締めの締めにくる歌が『東京の花売娘』。同じ岡晴夫の歌の中では、ほんとうは、『港に赤い灯がともる』(縹渺としたイントロの良さ、繰り返される「ああ」の優しさ!)の方が方が好きかなという気もしますけれども、幕開きは『女の階級』、締めはこれというのは当初に決めたこと。幕開きは『女の階級』、締めはこれというのは初めに決めたこと。スタンダード・マイ・ベストの両端にはあの官舎の居間でおぼえた歌、〝ヴァーチャルな思い出〟も重なる歌を据えたい。それに、あくまで明るい歌なのもいい。
 例の〝十歳ほど年長さん〟も、
「『東京の花売娘』のあの明るさね」
 と言う。
「もう、繰り返して聞いちゃってるの。空がこう、高くてさ。すこーん、と青いみたいな。解放感でしょう、あれは、やっぱりあのときの」
 空はべつに歌われてはいないのですが、たしかに晴れわたった空の感じはある。「青い芽を吹く柳」の「青」からの連想かもしれないし、柳の芽から、「柳青める日、つばめが銀座に飛ぶ日」というべつの歌を思い出すからかもしれない。『夢淡き東京』('49)になら春の青空がちゃんと出てくるのですしね。
 でもまあ、そんなことよりなによりも、この種の歌での彼の声の軽やかさ、のびやかさときたら。
「もう、ねえ……。こんな、しょうもない今を作るためにだよ? あの頃みんな、腹空かせてがんばったわけじゃないだろうと思うんだよね。で、思うとついすすむわけ、酒が。だから──って、じゃなくってもさ。春日八郎は、ぼくは、日が落ちてから以外聞けません」
 とも年長さんは言い、私は、朝でも昼でも聴きますけどね、仕事さえしていなければなどと答えつつ、頭の中で、パチ、パチと苦手な引算をする。流行っていた頃は、えーと、年長さんいくつ? 五つか、それとも六つかな。
(どっちにしても、もうこの世にはいたわけなのね)
 発売の時期は六月。柳青める季節よりはいくらかあとの話で、我が家の年表でいえば、母は大連からまだ引き揚げて来られず、上の姉はこの世のうちにまだいてというような頃。またべつの年表でいえば、春日八郎は復員して坂下に一旦戻り、運送屋で働きつつ再上京の機会をうかがっている。そして、彼が十月からまた加わることになるムーラン・ルージュは、一月前にはもう活動を再開している。
 過ぎ去った年月を彼が「しみじみと」振り返り、「短かったぜ、長かった」と歌ったのは'66年。
『東京の花売娘』を吹き込んだのは、たぶん、『演歌百選』の出た'73年。
 五十歳を目前にした彼にとっては、四半世紀前の日々は、さあ、どの程度に遠く、または、どの程度に近いものだと感じられていたわけなのか。
 月並みな想像ながら、まだらに近く、遠く、ときとして指呼の間とも思えるようなもの。たとえば、こんな歌を歌うときには、抜けるように青かった新宿の空もたちまち「目に見ゆ」などというようなことなのではなかったか? 聴くたびに、四半世紀よりも遠い官舎での日々さえ目に浮かんでくる私としては、そう考えたいところなのです。

 東京の敗戦直後の空の青さについては、多くの人がたしか書いています。解放感、安堵感からそう感じもしたし、事実、青く青く澄んでいた、と。でも、ほんの少し前にもどこかでねと思い、家の本棚をがさがさと探してみたらやはりありました。先月たまたま読んだ本の一節で、

「それにしても、何という凄惨なゼロの地上であったろう。そして、何という灼熱の光に充ちた蒼空であったろう」──山田風太郎『昭和前期の青春』

 記憶とは少し違って、比喩にかなり近いもの、それも、その年のその日についてのことでしたけど、手にとればつい、ほかのページもぱらぱら、と見てしまう。そのうちに、毎夜、中学の寄宿舎から抜け出しては映画館に「潜入」し、深更になって戻ることが「実に手に汗握る決死の大冒険であった」などという記述を発見。これも、少し前に似たことをと思い、今度は自伝をめくってみれば、
「顔を見られないように、頭からスッポリとマントをかぶって、映画館に行ったものだ。それがまたスリル満点の〝遊び〟でもあったのだ」
 なんていうのがすぐに出てくる。春日より二歳、三学年上の山田風太郎によれば、これは、ことに田舎では立派な「不良少年」の行為であったとのこと。そういえば、福島県公式のホームページには、


「春日八郎の少年時代は大変な腕白で、(惠隆寺の)現住の藤田正盛氏は家来にされていた」──「塔寺、気多宮の宿場の賑わい/春日八郎と縁の深い寺」

 などとも書いてあったのでしたっけ。『愛染かつら』も当然、「スッポリとマント」で見に行ったものの一つでしょうが、彼の記憶の中には、離れた時期のべつの話としてなぜか残ることになる。
(面白いわねえ、ヒトの記憶って)
 思いつつまた風太郎に戻ってみれば、今度は、「忘れられない本」という章にふっと目がとまる。
 本は戦時中、二二歳で読んだという菊池寛の『蘭学事始』。新制中学の教科書にも載っていたあの短篇で、記憶によれば、彼も書く通りにたしかに面白い話でした。「鼻は顔面にフルヘッヘンドせしものなり」の「フルヘッヘンド」を「うずたかし」と訳読するまでの苦心惨憺のあたりが「クライマックスであろう」というのも記憶の通りでしたが、
「ところが、さて、原著の『ターヘル・アナトミア』にはこれらの文章がないという」
 なんていう方は初耳。老いた玄白による回想記でもあり、と断り、単なる「思いちがいであったのだ」と述べた上での締めは、
「ところどころ『年は忘れたり』などと記憶の不確かさをことわっているくらいで、人をだます意思など、全然なかったことはいうまでもない」
 右の一文で、あれも、これも、ずいぶんいいタイミングで目にすることと、あきれるような、感心したいような気分になってくる。いつ判明した事実なのかな、とまたしても安易にのぞいたウィキペディアには、('82年、酒井シヅが原典から翻訳したところ、この単語はその中にはないと判明、広く報道もされたものだったとあります。ただし、そのあとで確認した『昭和前期の青春』の編者解説によれば、山田の右の文章の初出は'78年。
(所詮、ウィキペディアだからね?)
 そうは思いもするものの、これも、なんだか不思議なことではあったのでした。

太神楽狂いの実ちゃん
2017.5.5記

 青く晴れわたった空で思い出しました。五月の初めの日に町に出て、青い空を見るともなく見ながら歩いているうちに、「聞け、万国の労働者」という歌が頭の中でリピートされだして止まらなくなった。そんなことが何年か前にありました。
 何度リピートはされても、「轟きわたるメーデーの」に続く「シーシャ」がなんのことかわからない。子供の頃に耳でだけ憶えた歌だからですけれども、意味不明のまんまでリピートされると気持は大変悪い。帰ってすぐ検索し、「示威者に起こる足取りと」とは、なんという日本語かとあきれた一方で、もとは軍歌と知って、道理で苦手な歌だったとも、歩くのには妙に合ったとも納得したものでした。
 そのとき、五番まであった歌詞のかなりをほぼ正確に憶えていたのにもまた驚いた。
 軍歌に類するものは、家で親が歌うのを聴いた記憶はほとんどありません。せいぜい、『討匪行』か『可愛いスーチャン』の、それも一番の最初の一節ぐらい。父自身は『歩兵の本領』としておぼえたとおぼしい歌を、家で娘までが憶えるほど歌ったとはまず思いにくい。大体、どの歌もおしまいまでちゃんとは歌いませんからね。いつ憶えたかといえば、心当たりは、どういうわけでだったか、父に連れられて行ったメーデー以外ない。
 眩しく、白く光るシャツのたくさんの背中。頭上高くはためく幟。見上げる私の目の位置から考えて、十にはならない頃だったのだと思う。親が学校を休ませるわけもないので、五月一日が日曜日で晴れだという年は──と、いくつかのサイトをまた検索してみると、小学生以前で該当するのは1960年ただ一度きり、つまり、'60年安保の年のメーデーでおぼえた歌なんですね、あれは。
 詞の出来はひどい。あの手の曲もまるで好きではない。シュプレヒコールのたぐいもほんとうに苦手なのに、ナガキサクシュニナヤミタル、と頭の中で歌にしてみれば、ざわざわと血が騒ぐ。
 晴れわたっていた空も、父に手を引かれながら、
(そうか。うちはムサンの民なのか)
 気持、胸を張って歩いたのも記憶にありましたから、そんなことのせいかしらなどと思っていましたが、じつは、周囲の気配の記憶の名残でだったのだとか? 強行採決より二十日は前の話で、その場にはまだ、緊迫感というよりは昂揚した気分の方が主にあったのかもしれない。小半日耳にしただけのはずの歌が詞までなんて、よくよく、強い印象がと思ってみても、聞いたという記憶自体はまるである気がしていない。
(ほんとうは聞いていたのかな、リアルタイムで)
 春日八郎もという気もここでちょっとしてくるのですよね。ヒトの記憶のある部分はすぐ引き出せる形で残り、ある部分は、意識しては引き出しにくい形で残って、なにかの折に不意に蘇ってみたり、それとは知らないうちに影響を及ぼしたりなんかする。
 なぜか、血が騒ぐとか、音楽で身を立てるしかないといきなり思ってしまうとか、ですね。

 ヤフオクで落札した偲ぶ会会報の中に、

「少年時代の田舎廻りの旅芸人へのあこがれが、友人に連れられて浅草で初めて見た歌謡ショーで目をさましたのでしょう」──春日八郎「私の歳時記」

 という記述をみつけ、あれ? と思ったのは二月になってからのことでした。もう読んでいた自伝の二冊目の方にはその話は出てこない。一冊目にならあるのかもと泣く泣く、アマゾンのマーケット・プレイスでぼったくりな価格で出ていたのを購入してみたところ、幸い、大当たり。秋になると東京方面から廻ってくる太神楽に憧れて、加わろうと本気で考えたというエピソードがちゃんとあります。
「太鼓の音をきくと、もうたまらない。わたしはほかの遊びをぱっと中断して駈け出し、その一隊についてまわった。〝太神楽
(おかぐら)狂いの実ちゃん〟というアダ名がつけられたほどだ。やがて、それが昂じて、わたしに太神楽に飛び込もうという気をおこさせた。ずいぶんひとりで考え、悩んだ末、とうとう母親にその気持を打ち明けたものだ」
 母が、旅芸人の子がいかに辛い目を見るかと言い聞かせてもひるまず、決して悪い人たちではない、さきの出世のためには、人生の冒険を今からしないととなお言い募り、親と一緒に暮らすのがいやになったかと言われて初めて、母の心を傷つけたと気づき、断念したのだという。
(あるではないの、栴檀の双葉がここに)
 思い決めたら実行に移すまでの距離のこの無さ加減。それに、目にも鮮やかな白い股引に強く憧れて、とはいうものの、笛太鼓の音がなくても同じ思いに駆り立てられたものかどうか。そもそも、一ページ目にも数少ない父の記憶として、「秋の夜、軒端で尺八を吹きならし」とあり、母は母で、
「三味線の達者な女性だった。母の三味線はむろん趣味の範囲を出ないもので滅多に弾く姿を見かけることはなかったが、素人としては可成上手であった」
 とある。これは、歌のうの字だとはいえないまでも、音楽のおの字となら言っていい話ではないか、十分に。現に、田端義夫は例の自伝で、三歳のときに世を去った父について、
「唯一の楽しみは、仕事から帰り、縁側に座って自慢の手作りの尺八を吹くこと」
 と書き、いつも傍らで聞いていたことをのちに手作りのギターで歌い出したことと関連づけて、「まさに三つ子の魂」ととらえ、「音楽的な最初の原体験だったのかも」とも述べています。
 そういえば、遅く志してまず行ったのが東洋音楽学校、次が声専にムーラン・ルージュで、
(なんで、こんなに小節うまいの?)
 これも、前々から謎ではありました。はまったきっかけも、『妻恋峠』のあの馬子唄でしたしね。


「前歌などで長い間苦労して来ただけに、どんな歌でも器用にこなしてしまう。そこではじめは股旅物といわれるやくざ節等を多くあずけられていた」──矢野亮「春日八郎の歌とその魅力」

 と言われても今一つ納得はせず、キングでの最初の師、細川潤一が「日本調を得意とし、音頭といえば細川といわれた」(三省堂「日本芸能人名事典」細川潤一の項)なんていうのを見て一応納得はしたのですが、さあ、どうなんでしょう。笛太鼓、柝の音、いよォーッ、と要所要所で入る声。とくに音楽とも意識せずに耳にしたこういうものが、父の尺八、母の三味線、惠隆寺の鐘の音その他とともにのちの小節の土台石となった。youtubeで江戸太神楽の心躍る音なんかを聴くと、ちょっと、そう思ってもみたくなってくる。
 そんなわけで、年表の初めに以下の六行を追加することとします。

1924年10月 9日、渡部実(のちの春日八郎)、福島県河沼郡会津坂下町塔寺
       で生まれる。
1925年 3月 JOAKによる日本初のラジオ放送。
    4月 治安維持法制定。
1930年 4月 八幡村立八幡尋常小学校に入学。
  ?年    村に時折来る旅芸人の少年たち(と、その白い股引)に憧れ、太
       神楽の一座に入ることをかなり本気で夢見るが、母の猛反対にあ
       い、断念。


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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