上海、夜霧のあとは、ブルースつながりで『かりそめの恋』。そして『マロニエの木蔭』と洋物っぽい女歌二曲をはさみ、締めの締めにくる歌が『東京の花売娘』。同じ岡晴夫の歌の中では、ほんとうは、『港に赤い灯がともる』(縹渺としたイントロの良さ、繰り返される「ああ」の優しさ!)の方が方が好きかなという気もしますけれども、幕開きは『女の階級』、締めはこれというのは当初に決めたこと。幕開きは『女の階級』、締めはこれというのは初めに決めたこと。スタンダード・マイ・ベストの両端にはあの官舎の居間でおぼえた歌、〝ヴァーチャルな思い出〟も重なる歌を据えたい。それに、あくまで明るい歌なのもいい。
例の〝十歳ほど年長さん〟も、
「『東京の花売娘』のあの明るさね」
と言う。
「もう、繰り返して聞いちゃってるの。空がこう、高くてさ。すこーん、と青いみたいな。解放感でしょう、あれは、やっぱりあのときの」
空はべつに歌われてはいないのですが、たしかに晴れわたった空の感じはある。「青い芽を吹く柳」の「青」からの連想かもしれないし、柳の芽から、「柳青める日、つばめが銀座に飛ぶ日」というべつの歌を思い出すからかもしれない。『夢淡き東京』('49)になら春の青空がちゃんと出てくるのですしね。
でもまあ、そんなことよりなによりも、この種の歌での彼の声の軽やかさ、のびやかさときたら。
「もう、ねえ……。こんな、しょうもない今を作るためにだよ? あの頃みんな、腹空かせてがんばったわけじゃないだろうと思うんだよね。で、思うとついすすむわけ、酒が。だから──って、じゃなくってもさ。春日八郎は、ぼくは、日が落ちてから以外聞けません」
とも年長さんは言い、私は、朝でも昼でも聴きますけどね、仕事さえしていなければなどと答えつつ、頭の中で、パチ、パチと苦手な引算をする。流行っていた頃は、えーと、年長さんいくつ? 五つか、それとも六つかな。
(どっちにしても、もうこの世にはいたわけなのね)
発売の時期は六月。柳青める季節よりはいくらかあとの話で、我が家の年表でいえば、母は大連からまだ引き揚げて来られず、上の姉はこの世のうちにまだいてというような頃。またべつの年表でいえば、春日八郎は復員して坂下に一旦戻り、運送屋で働きつつ再上京の機会をうかがっている。そして、彼が十月からまた加わることになるムーラン・ルージュは、一月前にはもう活動を再開している。
過ぎ去った年月を彼が「しみじみと」振り返り、「短かったぜ、長かった」と歌ったのは'66年。
『東京の花売娘』を吹き込んだのは、たぶん、『演歌百選』の出た'73年。
五十歳を目前にした彼にとっては、四半世紀前の日々は、さあ、どの程度に遠く、または、どの程度に近いものだと感じられていたわけなのか。
月並みな想像ながら、まだらに近く、遠く、ときとして指呼の間とも思えるようなもの。たとえば、こんな歌を歌うときには、抜けるように青かった新宿の空もたちまち「目に見ゆ」などというようなことなのではなかったか? 聴くたびに、四半世紀よりも遠い官舎での日々さえ目に浮かんでくる私としては、そう考えたいところなのです。
東京の敗戦直後の空の青さについては、多くの人がたしか書いています。解放感、安堵感からそう感じもしたし、事実、青く青く澄んでいた、と。でも、ほんの少し前にもどこかでねと思い、家の本棚をがさがさと探してみたらやはりありました。先月たまたま読んだ本の一節で、
「それにしても、何という凄惨なゼロの地上であったろう。そして、何という灼熱の光に充ちた蒼空であったろう」──山田風太郎『昭和前期の青春』
記憶とは少し違って、比喩にかなり近いもの、それも、その年のその日についてのことでしたけど、手にとればつい、ほかのページもぱらぱら、と見てしまう。そのうちに、毎夜、中学の寄宿舎から抜け出しては映画館に「潜入」し、深更になって戻ることが「実に手に汗握る決死の大冒険であった」などという記述を発見。これも、少し前に似たことをと思い、今度は自伝をめくってみれば、
「顔を見られないように、頭からスッポリとマントをかぶって、映画館に行ったものだ。それがまたスリル満点の〝遊び〟でもあったのだ」
なんていうのがすぐに出てくる。春日より二歳、三学年上の山田風太郎によれば、これは、ことに田舎では立派な「不良少年」の行為であったとのこと。そういえば、福島県公式のホームページには、
「春日八郎の少年時代は大変な腕白で、(惠隆寺の)現住の藤田正盛氏は家来にされていた」──「塔寺、気多宮の宿場の賑わい/春日八郎と縁の深い寺」
などとも書いてあったのでしたっけ。『愛染かつら』も当然、「スッポリとマント」で見に行ったものの一つでしょうが、彼の記憶の中には、離れた時期のべつの話としてなぜか残ることになる。
(面白いわねえ、ヒトの記憶って)
思いつつまた風太郎に戻ってみれば、今度は、「忘れられない本」という章にふっと目がとまる。
本は戦時中、二二歳で読んだという菊池寛の『蘭学事始』。新制中学の教科書にも載っていたあの短篇で、記憶によれば、彼も書く通りにたしかに面白い話でした。「鼻は顔面にフルヘッヘンドせしものなり」の「フルヘッヘンド」を「うずたかし」と訳読するまでの苦心惨憺のあたりが「クライマックスであろう」というのも記憶の通りでしたが、
「ところが、さて、原著の『ターヘル・アナトミア』にはこれらの文章がないという」
なんていう方は初耳。老いた玄白による回想記でもあり、と断り、単なる「思いちがいであったのだ」と述べた上での締めは、
「ところどころ『年は忘れたり』などと記憶の不確かさをことわっているくらいで、人をだます意思など、全然なかったことはいうまでもない」
右の一文で、あれも、これも、ずいぶんいいタイミングで目にすることと、あきれるような、感心したいような気分になってくる。いつ判明した事実なのかな、とまたしても安易にのぞいたウィキペディアには、('82年、酒井シヅが原典から翻訳したところ、この単語はその中にはないと判明、広く報道もされたものだったとあります。ただし、そのあとで確認した『昭和前期の青春』の編者解説によれば、山田の右の文章の初出は'78年。
(所詮、ウィキペディアだからね?)
そうは思いもするものの、これも、なんだか不思議なことではあったのでした。
太神楽狂いの実ちゃん
2017.5.5記
青く晴れわたった空で思い出しました。五月の初めの日に町に出て、青い空を見るともなく見ながら歩いているうちに、「聞け、万国の労働者」という歌が頭の中でリピートされだして止まらなくなった。そんなことが何年か前にありました。
何度リピートはされても、「轟きわたるメーデーの」に続く「シーシャ」がなんのことかわからない。子供の頃に耳でだけ憶えた歌だからですけれども、意味不明のまんまでリピートされると気持は大変悪い。帰ってすぐ検索し、「示威者に起こる足取りと」とは、なんという日本語かとあきれた一方で、もとは軍歌と知って、道理で苦手な歌だったとも、歩くのには妙に合ったとも納得したものでした。
そのとき、五番まであった歌詞のかなりをほぼ正確に憶えていたのにもまた驚いた。
軍歌に類するものは、家で親が歌うのを聴いた記憶はほとんどありません。せいぜい、『討匪行』か『可愛いスーチャン』の、それも一番の最初の一節ぐらい。父自身は『歩兵の本領』としておぼえたとおぼしい歌を、家で娘までが憶えるほど歌ったとはまず思いにくい。大体、どの歌もおしまいまでちゃんとは歌いませんからね。いつ憶えたかといえば、心当たりは、どういうわけでだったか、父に連れられて行ったメーデー以外ない。
眩しく、白く光るシャツのたくさんの背中。頭上高くはためく幟。見上げる私の目の位置から考えて、十にはならない頃だったのだと思う。親が学校を休ませるわけもないので、五月一日が日曜日で晴れだという年は──と、いくつかのサイトをまた検索してみると、小学生以前で該当するのは1960年ただ一度きり、つまり、'60年安保の年のメーデーでおぼえた歌なんですね、あれは。
詞の出来はひどい。あの手の曲もまるで好きではない。シュプレヒコールのたぐいもほんとうに苦手なのに、ナガキサクシュニナヤミタル、と頭の中で歌にしてみれば、ざわざわと血が騒ぐ。
晴れわたっていた空も、父に手を引かれながら、
(そうか。うちはムサンの民なのか)
気持、胸を張って歩いたのも記憶にありましたから、そんなことのせいかしらなどと思っていましたが、じつは、周囲の気配の記憶の名残でだったのだとか? 強行採決より二十日は前の話で、その場にはまだ、緊迫感というよりは昂揚した気分の方が主にあったのかもしれない。小半日耳にしただけのはずの歌が詞までなんて、よくよく、強い印象がと思ってみても、聞いたという記憶自体はまるである気がしていない。
(ほんとうは聞いていたのかな、リアルタイムで)
春日八郎もという気もここでちょっとしてくるのですよね。ヒトの記憶のある部分はすぐ引き出せる形で残り、ある部分は、意識しては引き出しにくい形で残って、なにかの折に不意に蘇ってみたり、それとは知らないうちに影響を及ぼしたりなんかする。
なぜか、血が騒ぐとか、音楽で身を立てるしかないといきなり思ってしまうとか、ですね。
ヤフオクで落札した偲ぶ会会報の中に、
「少年時代の田舎廻りの旅芸人へのあこがれが、友人に連れられて浅草で初めて見た歌謡ショーで目をさましたのでしょう」──春日八郎「私の歳時記」
という記述をみつけ、あれ? と思ったのは二月になってからのことでした。もう読んでいた自伝の二冊目の方にはその話は出てこない。一冊目にならあるのかもと泣く泣く、アマゾンのマーケット・プレイスでぼったくりな価格で出ていたのを購入してみたところ、幸い、大当たり。秋になると東京方面から廻ってくる太神楽に憧れて、加わろうと本気で考えたというエピソードがちゃんとあります。
「太鼓の音をきくと、もうたまらない。わたしはほかの遊びをぱっと中断して駈け出し、その一隊についてまわった。〝太神楽(おかぐら)狂いの実ちゃん〟というアダ名がつけられたほどだ。やがて、それが昂じて、わたしに太神楽に飛び込もうという気をおこさせた。ずいぶんひとりで考え、悩んだ末、とうとう母親にその気持を打ち明けたものだ」
母が、旅芸人の子がいかに辛い目を見るかと言い聞かせてもひるまず、決して悪い人たちではない、さきの出世のためには、人生の冒険を今からしないととなお言い募り、親と一緒に暮らすのがいやになったかと言われて初めて、母の心を傷つけたと気づき、断念したのだという。
(あるではないの、栴檀の双葉がここに)
思い決めたら実行に移すまでの距離のこの無さ加減。それに、目にも鮮やかな白い股引に強く憧れて、とはいうものの、笛太鼓の音がなくても同じ思いに駆り立てられたものかどうか。そもそも、一ページ目にも数少ない父の記憶として、「秋の夜、軒端で尺八を吹きならし」とあり、母は母で、
「三味線の達者な女性だった。母の三味線はむろん趣味の範囲を出ないもので滅多に弾く姿を見かけることはなかったが、素人としては可成上手であった」
とある。これは、歌のうの字だとはいえないまでも、音楽のおの字となら言っていい話ではないか、十分に。現に、田端義夫は例の自伝で、三歳のときに世を去った父について、
「唯一の楽しみは、仕事から帰り、縁側に座って自慢の手作りの尺八を吹くこと」
と書き、いつも傍らで聞いていたことをのちに手作りのギターで歌い出したことと関連づけて、「まさに三つ子の魂」ととらえ、「音楽的な最初の原体験だったのかも」とも述べています。
そういえば、遅く志してまず行ったのが東洋音楽学校、次が声専にムーラン・ルージュで、
(なんで、こんなに小節うまいの?)
これも、前々から謎ではありました。はまったきっかけも、『妻恋峠』のあの馬子唄でしたしね。
「前歌などで長い間苦労して来ただけに、どんな歌でも器用にこなしてしまう。そこではじめは股旅物といわれるやくざ節等を多くあずけられていた」──矢野亮「春日八郎の歌とその魅力」
と言われても今一つ納得はせず、キングでの最初の師、細川潤一が「日本調を得意とし、音頭といえば細川といわれた」(三省堂「日本芸能人名事典」細川潤一の項)なんていうのを見て一応納得はしたのですが、さあ、どうなんでしょう。笛太鼓、柝の音、いよォーッ、と要所要所で入る声。とくに音楽とも意識せずに耳にしたこういうものが、父の尺八、母の三味線、惠隆寺の鐘の音その他とともにのちの小節の土台石となった。youtubeで江戸太神楽の心躍る音なんかを聴くと、ちょっと、そう思ってもみたくなってくる。
そんなわけで、年表の初めに以下の六行を追加することとします。
1924年10月 9日、渡部実(のちの春日八郎)、福島県河沼郡会津坂下町塔寺
で生まれる。
1925年 3月 JOAKによる日本初のラジオ放送。
4月 治安維持法制定。
1930年 4月 八幡村立八幡尋常小学校に入学。
?年 村に時折来る旅芸人の少年たち(と、その白い股引)に憧れ、太
神楽の一座に入ることをかなり本気で夢見るが、母の猛反対にあ
い、断念。