♪春日八郎アーカイヴ♪

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ソラリスの優しい海
2017.5.9記

 突然のようにはまって以来、半年が経過して、ふと気がつけば、欲しいアルバムでまだ手に入れていないのは『岡晴夫を歌う』のみ。年の初めに作成したカバー曲のリスト中、まだ聞けていないのも、そのアルバムに収録の『東京の空、青い空』のみ。中古ながら、USB接続可のプレイヤーまで手許にはすでにあるのでしたから、恐るべし、ヤフオク。
 なんにしても、去年の今頃には想像さえしない事態で、こはいかにと不思議ではあります。
 不思議といえば、当初に不思議と書いたいくつかのことも、
(こんなあたりかな、大体)
 と、自分なりに納得はし始めている。当たりかどうかは全然わかりませんが。
 無論、岡晴夫の三曲がいつ録音されたのか、なぜ、あのアルバムには収録されなかったかなんていう謎は、当時のキングの関係者に聞かないとたぶんわからない。
『黄金の歌声』になぜ、『星屑の町』が入っていないのか、なんかも聞かないとの口なのかもしれない。
『星屑の町』は、三橋美智也のヒットの中では一番好きだった歌。どういうわけか、いいカバーがないとも思っていた歌でした。ちあきなおみのは、アルバム自体は名盤ではあるものの、この歌はもうべつのもの。やや期待した鈴木雅之のはどうもアレンジがうるさい。結局、本人以外で気に入ったのは内田勘太郎のギター・ヴァージョンだけでしたから、カバーをしあった盤があると知ったとき、まず期待をしたのもこの歌だったのでした。
 今は、曲の魅力を損なわずにナニカを加え、その上でオリジナルの出来以上、少なくとも同等程度の出来で歌うのは困難との判断によるものだろうな、と思うのですけれどもね? なにしろ、「ミッちゃんに負けないぞ」なのだし、すでに知られている曲の持ち味は大事に扱う方の人だし。
 しかし、とくに事情があったとも思われない『涙の渡り鳥』とか、『燦めく星座』、『東京夜曲』といったところは、是非歌ってほしかった。古いところでいうのなら、『流浪の旅』。もっとあとの歌なら『さすらい』。小林旭のでもいいし、克美しげるの同じ題の方でもいい。そう、克美しげるというのなら、『ナナ』だっていい。
(「なにをいまさら」も「想い出さすな」も、「小さな背中を」からのサビも聞こえそうじゃないの、あの声で──すごく、いい感じで)
 なんていう無いものねだりはさておくとして、少年時代の、歌に関する唯一の挿話として挙げていた『旅の夜風』を歌っていない(らしい)というのは、いくらか不思議な気のすることです。
〝強制的追想の不思議〟については、もう、当時耳にしてはいたと思うようになっている。引き出せない形の記憶であった分だけ、変質もせず、聞くともなしに聞いていた日々の、いわば、空気の記憶に似たものとして、より鮮明に残っていたのかもしれない。
 でもたぶん、それだけではない。
 彼の歌、ことに、『別れの一本杉』以降の初期のヒットは、望郷歌謡と呼ばれるらしい。
 同時期の三橋美智也のヒットともども、高度成長期にさしかかったこの国のありよう、庶民の心情と強く結びつけて語られることも多々あるらしい。
 春日八郎の場合は、彼自身が、


「ふるさと歌手にはいろいろあるが、私の場合は、都会の片隅で生きる人間が、ふるさとをしのび、切ない思いを訴える望郷の歌がいちばん向いている」──'80年、朝日新聞「うたのふるさと」

 記者に答えて言い、自伝にも、「農村でよりも、都会で売れた」と書くように、とくに故郷を離れて都会へと出た人、おそらくはもう帰らない人たちの心に寄り添って歌い、人気を呼んだのだ、と。
 たしかにそうだったのだろうとは思いますけれど、これもたぶんそれだけじゃない。

 手に入った音源のうち、少し珍しいものを、
(せっかくだから……)
 と、youtubeにぼつぼつ上げ出したのは、この正月が明けてからのこと。おかげでアップした方の側には、アクセスした人たちの性別、年齢等の割合がわかると知ったりもしたのですが、さて、アクセスしていたのはどのような人たちであったのか?
 予期通り、六五歳以上の層が半数強ではありますが、次に多いのは二五歳から三四歳。意外なほど若いこの層が約三分の一を占める上、男性に限って言えば、六五歳以上の層を上回る。一八歳から二四歳、つまり、彼の没後に誕生した世代も五パーセントほどはいて、五五歳から六四歳の層と大体同率、という結果。総再生回数、28,000と分母こそ大きいものの、期間は短く、変動の幅は大きく、同一人の複数アクセスもおそらく多い。大変、不備なデータですけれど、なんだかおもしろい。アクセス数の桁が違い、ついたコメントも多いほかの彼の動画を見ても、若い、それも熱心なファンがは思いのほかにいるんですね。
 一部とはいえ、西側の音楽が解禁となった'80年代半ば、中国では、文化大革命以降、ほぼ二十年分の音楽がすべて〝今のもの〟として一時に入り込み、その渾沌がむしろおもしろい音を生み出す土壌となっている。
 大体、そんな趣旨の文章を目にしたことがありました。もう十数年昔のことでしたけど、ある意味で、youtubeは似た状況を作っているのではないか? と思うときがある。新しい、おもしろい音がそこから生まれてくるものかどうかはともかくとして、新しい聞き手、その音楽が作られたときとはまた違う時代、違う社会で育った聞き手はたしかに生まれてきているようです。
(当然、高度成長期とも、棄郷、望郷とも直接には関係ないナニカに惹かれてなんでしょう?)
 聞けるものなら、なににかと端から聞いてまわりたい気もしてきますけれども、考えてみれば、私にしたって東京生まれの東京育ち。捨ててきた故郷は、文字の通りの意味でならあるわけじゃない。 にもかかわらず、聞けばなんだか刺すような懐かしさをおぼえると同時に、深々と慰撫されている、というようにも思う。私にとっては、彼の歌声はどうも、失ってきたさまざまのものをひどく切実に思い起こさせるものらしいのです。そして、切実に思い出せるだけの記憶は、かつてあったものの雌型のように──まるでポンペイのあの灰の中の雌型のように──私の中に今もくっきりとあるということも。
 春日八郎の歌は、ソラリスの海がヒトの記憶の中から「もっとも病的な個所、もっとも深く秘められていて、もっとも完全に、もっとも深く刻みこまれている」ものを取り出して見せるのにも似て、もっと優しく、「もっとも完全に、もっとも深く刻みこまれている、もっとも懐かしいもの」を現前させる、なんていうと、ちょっと、ロマンティックに過ぎるのかもしれませんけど。

不器用な男です

2017.5.13記

 パリ在住の作曲家、吉田進は、『別れの一本杉』や『お富さん』を聴くたびに「非常な懐かしさが、こみ上げてくる」と書き、その理由を、

「単に幼い耳の記憶がよみがえるためばかりではなく、伝統的な音感覚に根差した春日八郎の歌声が、一日本人の深奥部に触れるためである、と僕には思われる」──吉田進『パリからの演歌熱愛書簡』

 そう推測しています。昔よく聞いた、と思い出すから懐かしいというだけなんじゃない。彼の歌声自体に、
(懐かしい……)
 としみじみ感じさせ、「泣き出したい思いにまで」させるナニモノカがあるからだ、という見解。
 近い意見ではないの? とは思いつつ、一日本人以下の部分には、ちょっと、どうかなあと思ってしまう。ここやいくらか前の「僕の体内を流れる、日本人の血が呼応」などという箇所での「日本人」の定義が不明確だからなんですが、まあいくらかは、書かれた八〇年代半ばではなく、この今読むせい。ややナーヴァスになっているせいかもしれない。そう長くは日本を離れていたことがなく、較べる機会を持たなかったせいでもありますけれどもね。
 富岡多恵子は、アメリカで一年暮らして帰国した際、乗ったタクシーのラジオから聞こえる歌を、「この国の他ではきこえてこないメロディーであり、リズムであり、たいへん独特なもの」
(『歌・言葉・日本人』)と感じ、感動をおぼえた、と書いている。'60年代半ばのことです。
 こちらは時期は不明ながら、春日八郎本人も、日本の歌の「泣き節」について、「この種のメロディーは東洋人独特のもので、欧米人にはわからん」
(長谷川仁『春日八郎大全集』讃辞より)と言っていたとのこと。ハワイ、ブラジルでの公演の経験に加え、趣味の馬が縁での欧州旅行もしているのだし、「欧米人には」という実感があったのでしょうね、なにか。
 そういえば、youtubeに上げられた彼の動画には、他国からのコメントもたまについている。目に付いたものを翻訳サイトを使って訳してみた結果は、大体、以下の通り。


「私の記憶の通りなら、これは六十年近く前に台湾で流行った、有名な日本の歌に違いない。通りを歩けば、口ずさむ人とよく出会ったものだ」──アーカイ(台湾)
「春日八郎。有史以来の日本の演歌歌手の王」
──ヤン・チャンチエ(台湾・『長崎の女』)
「『別れの一本杉』、このひたむきな思い……」──ティホ・リー(韓国)
「とても好き。アリガトウ」
──Mrs.スカンヤ・サクマン(タイ・『旅姿三人男』)
「ありがとう! 非常に美しく、心満たされる思いです。ロシアからのご挨拶を!」
──カヴァルナ・ズミーナイヴナ(ロシア・『別れの一本杉』)
「おお、神よ、驚くべき声だ。ありがとう!」
──ハゴス・ヨセフ(エチオピア・『別れの一本杉』)
「僕は彼の歌を聴くのが好きだ。エンカの最高の歌手、春日八郎。素晴らしい!」──テリク・ラジャブ(ブラジル・『別れの一本杉』)

 コメントのうち六つまでは五音階を伝統とするという東、及び東南アジアと、これも五音階の国だというエチオピア、自然短音階の民謡があるといわれるロシアからのもの。ブラジルからのコメントも原語はアラビア文字で、名前からしても、その文字を使用し、五音階をベースとするスーダン系の人である可能性が高い気がする。
 台湾の場合は、日本とのかつての縁が縁です。幼い耳の記憶でもあるようですし、全体として、例がデータというには少な過ぎ、この私には読み解く能力がない。いろいろとあれなんですが、母語ならぬ、母音階の引力はあるというようにはなんだか見えて、なるほど、「伝統的な音感覚」で、「東洋人」ねと思ってみたりする。
(私はもちろん、今の世代にもその影響は残っているというわけで……)
 といったって、私だってどの五音階、または、自然短音階の歌を聴いても懐かしくってたまらなくなるわけじゃない。ソラリスの海説、やはり捨てがたいのですけれどもね。

 右のコメントからしても、この国の外にも、エンカを一ジャンルとして認識する人々はいるものらしい。ただし、エンカも、私には定義がよくわからない方の言葉です。実作者、実演家のどちらでもない身としては、その定義にはさほど興味もない。とはいえ、彼がなぜ演歌という呼称に拘泥したか、彼がいう〝演歌〟とはどういうものなのかには、一ファンとしての興味が多少あります。
 漠然とした記憶では、エンカ、という言葉をよく見聞きするようになったのは'60年代半ば頃から、ことに、藤圭子が「演歌の星」のキャッチコピーとともに華々しく登場した'70年前後から。ちゃんと確認したければ、古い新聞、雑誌に片端から目を通し、いつ頃から出てきたか、いつから演歌の表記が定着したかとチェックすればわかるのでしょうけど、さすがにめんどうくさい。
 無精して、手許にあるアルバムのライナー・ノウツにだけ目を通してみれば、'63年の『大正 昭和のはやり唄』では、アルバムの性格もあってでしょうが、その言葉は一度も出てこない。それが、翌年の『花のステージ』には「本命の艶歌調はむろん」と自明のこととして記され、'66年の『春日八郎リサイタル』の解説では、彼の歌を「日本の歌謡曲、ことに演歌」とはっきり呼んでいます。

 '70年代に入るとほぼ艶歌の表記で頻出、「艶歌といえばとにかく、春日八郎」「春日節は、艶歌の軸ともなるべきパターン」などと書かれ出す。'73年には表記は演歌と変わり、ライナー・ノウツには、「演歌の神様」「演歌の第一人者」などの表現が世評として記されて──という具合。
 '74年の『熱血の歌声』では、伊藤強が「このLPは、徹底して演歌である」「春日は、自分の新しいスタートも、その目標を演歌という一点に絞り上げ」と書き、紅白歌合戦の司会者、山川静夫は、七六年には「演歌の神髄は、この人におまかせ下さい。演歌はこの人のすべてです。ディス・イズ・演歌。春日八郎さん、『あん時ゃどしゃ降り』」と、翌年には大きな話題を呼んだドラマのタイトルに掛けて、「演歌のルーツです」と彼を紹介する。
『熱血の歌声』なんか、今聞くと、曲調も歌も言うほどそう演歌かなあ、と思いますけどね。同じ年の大ヒット、『襟裳岬』がことさらフォークらしく歌われたりはせず、あくまで森進一の歌であったのと同様、どの歌もあくまで、春日八郎の歌として歌われている。それだけではないの、と。
 森進一が、「あなたは演歌歌手ですか」という問いに、
「そういわれるとむしろ不愉快に近いです。流行歌手ですよ。昔はレコード盤の真ん中に〈流行歌〉というシールが貼ってあった。あれを歌う人です」
('13、「週刊ポスト」)
 と答えているのとは対照的に、春日はそのネーミングを肯定的に受け止め、かつ、拘ってもいるように見えます。リサイタルの名称だけのことなのではない。晩年に近い時期にも、


「振り返ってみますと、私は、本当に不器用な男です。今の時代のように、いろんな歌が歌えて、いろんなことができたら、私の歌の道もまたいくらか違ってたんじゃないか。そういうふうに思っております。でも──自分には自分の歌、演歌があるんだ。そんな風に、ええ……、大上段に構え、歌っていくほかありません」──春日八郎、'84年、NHK『この人 春日八郎ショウ』より

 と語っています。この、さして長くはない言葉の中に鍵があるような気もする。

ドレミファソラシド

2017.5.19記

 '73年のリサイタルについて、輪島裕介はやや皮肉な口調でこう述べています。

「『演歌』ジャンル成立以前の人気歌手・春日八郎は、《船頭小唄》にはじまる『ナツメロ』と自身の過去のヒット曲を交えて構成した『演歌とはなんだろう』と題したリサイタルによって、文化庁芸術祭大衆芸能部門大賞を受賞しています。ここでは、『なんだろう』と問いながらも、『演歌』とは大正末の流行り唄と昭和以降のレコード歌謡の総体であり、春日自身がそれを体現するのだ、という自負がうかがえ、しかも、それが公的な『お墨付き』を得ているのです」(『創られた「日本の心」神話』)

 たしかに、彼が人気歌手になってかなり経ってから使われだした呼称だし、演歌の第一人者、春日八郎の類いも、ずいぶんあとから遡って言われ始めたもの。まあ、芸術祭大賞云々については、
(あれね? 流行りだったのよ、あの頃の。テレビドラマでもなんでも芸術祭参加でね……)
 と思いますけどね、公的なお墨付きだとかいうよりは。
 演歌とは、という話がなんだかややこしく思えるのは、歌の心のようなもの、詞の内容、唱法、音階、歴史等の主に何による定義かが不明瞭で、言う人によってもまちまちだからですけど、どうも、歌い手は心、評論家は音階だの歴史だのにウェイトを置いて言っているようには見える。聞く側の多くはあの感じの歌程度に漠然ととらえていて、〝あの感じ〟のニュアンスも、小節とビブラートは必須でしょ、という以外は時とともに変動するという。
 もとから大してない興味はますます薄れ、いいじゃない、べつに、歌謡曲でと思いもするわけなんですが、春日八郎は、'81年の自伝では、
「私がうたい続けることが、演歌とは何だろう、と問い続けることだ」
 と言い、'84年にはああ言ってもいるのですから、自分が歌ってきた歌を、演歌、と呼んでみるとナニカが以前よりも腑に落ちる。なにか、そう感じてのことであったのかもしれない。ありますからね? 名をつけてみて、ああ、自分はそれだったんだと初めて腑に落ちるようなことは。
 自伝のあとがきでは、彼は、演歌はこうでもあるし、こうでもあると書く。曰く、ひとりひとりの生活に密着した思いを歌い、ひとりひとりの心の襞にまで分け入って聴かれるもの。平和な時代のもの、戦時下ともなれば禁止されてしまうような、いわば、個人主義的なもの。農村から都会に出てきて働く人たちによって育てられてきたもの。
 最後の一項さえのぞけば森進一も「不愉快に近い」とはまず言わなそうなもので、校歌、社歌、軍歌等々、特定の目的を持った歌以外のほぼ大半の歌に該当しそうですけれど、のぞかなければ、
「自分が歌ってきた歌は、なんだったろう」
 という問いではないか、ほんとうはと思うほど、春日八郎の歌そのものだ、と言っていい。以上の前に、明らかに彼自身のこととして書く、「巷に放り出された時、人は何を感じるか。長い間の人間とのふれ合いの中で、くやしかったこと、うれしかったことを、すべて憶えていて、それをうたの感情にしていく」につなげれば、自分の歌をどういうものだと見ていたのかがわかる気がする。
 やはり最後の一項をのぞけば、いかにも歌い手らしく、歌の心についての言及ですが、そのようである歌を、自分は今のスタイルで以外歌えない。ならば、その不器用を受け入れ、むしろ積極的に肯定して歌い続けるほかはない。テレビでの言葉は、私にはそんな風に聞こえます。
 そういえば、淡谷のり子が演歌をひどく攻撃していた時期があったのでしたっけ。
 記憶では、'70年にはまだならないような頃、北島三郎、水前寺清子あたりの歌がずいぶん売れていた頃。たしか、千昌夫の『星影のワルツ』の歌詞をこき下ろしていた、とも思うので、はやった'67年よりは前からの話。高木東六がテレビで演歌をボロクソにくさしていたのもまあ近い時期、ということは、春日八郎の歌が艶歌調とよく言われ出していたような時期。自伝では、彼は、
「わたしにはある一面──周囲が反対すればするほど、だんだん気持が固まって、なにがなんでも貫き通さでおくものかといった性格がある」
 と語っていたのでしたが、演歌への、または、演歌という言葉への彼のこだわりは、このあたりのこととなにか関係があるのかどうか?
 そしてまた、あとがきでは彼は、
「ピアノの前に坐ってやるのは、『音楽』であって、『演歌』ではない」
 とも言っている。家のピアノを弾きつつ歌うには、親のある程度の金と、西洋風の音楽に早期に触れられるような環境がいる。戦前には今思うよりは遙かにリッチ、かつ、ハイカラな環境だったでしょうが、若き日の春日八郎にはそのどっちも当然ない。
 勇躍、東洋音楽学校には入学してみたものの、そこは良家の子女が来る学校。生徒の大半は家に自前の楽器を持っていて、「すでに十分に楽器を扱いなれてから入ってくる」。うたのうの字もの彼には、中古の楽器を購入する金もなく、備品のピアノの使用料さえ払えない。「あまり親しくもない友人に、無理して気さくに声をかけ、彼のピアノのレッスンの持ち時間に割り込む」という方法で「細切れ器楽練習」に精を出しても、差は開いていく一方。お嬢さんたちの一部には軽侮の目でも見られて、といったことの記憶とその言葉とは、なにか、関係があるのかどうか。

 先に引用した富岡多恵子の『歌・言葉・日本人』によれば、彼女の母親は、「六つの六月から」十余年三味線を習い、初めて手にしたウクレレでも都々逸、さのさを弾いてみせる一方で、「今の歌謡曲に合わせる音楽」は弾けず、「その歌も絶対に歌えないのである」。
 明治三六年生まれの富岡多恵子の母は、たまたま、学校では西洋音楽をほとんど習わず、「徹底した西洋一辺倒の教育が統一的に行われた」「あらゆる東洋諸国の中でも極端な偏向教育であった」
(『日本の音』)と小泉文夫がいう官製音楽教育の影響を受けなかったものらしいのですね。富岡は、当時としても珍しい例かと断りながら、「草深い地方にはこういうひとはまだたくさんいるだろう」とも書いている。「草深い」坂下に育ち、その母親よりはかなり年長とおぼしい春日八郎の父親、母親がそういうひとたちだったとしても、別段不思議ではない。
 春日自身はといえば、いい点をもらった記憶がない、と言うのだから唱歌は教わっている。おおかたは例のヨナ抜き・長音階の唱歌だったのでしょうけど、『旅の夜風』を歌え、のちの音楽学校の授業にもついてはいけたというのはその成果でもあったわけでしょう。『歌・言葉・日本人』には、三波春夫の、浪曲の発声法を消すのには一苦労をしたものの、「ドレミファソラシド」は小学校で習ったものに帰ればいいだけで、案外簡単だった──という談話もありますからね。
 こうしてみると、横浜でのジャズ修業の挫折にしても、単に、声の質を含めての彼の資質がジャズには合わない、というだけのことではないのでしょうね。終戦の年には二十一歳だった春日八郎に対し、ひばり、チエミ、いづみの三人娘は八歳。フランク永井にしても十三歳です。加えて、草深い地方の生まれではなく、幼少時には裕福か、親が音楽好きかいずれかの環境。
 近い条件がもし与えられて
いたら、春日八郎の歌の道も「またいくらか違ってたんじゃないか」。
 不器用、という言葉の少なくともいくらかは、そのあたりを指すもののような気もどうもしてくる。
(だって、大上段に構え、なんて自分で言うっていうのはね?)
 いろいろ、大変であったことだろう、さぞとは想像する一方で、演歌歌手・春日八郎を形作った環境、偶然のさまざまを、良かった、そのようであってくれてともまた思う
のです。

ほんのちょっとした御縁

2017.5.29記

 この歌のこの部分のこの声が、だとか、この節回しがとかいうような話に早く戻りたい。そう思いつつも行きがかり上、ではない話、淡谷のり子が演歌をボロクソになんていう話をもう少々続けます。
 彼女はその後も、「演歌も大きらい。なさけなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ」と言い、「演歌撲滅運動をしたいという。美空ひばりの歌がはやっている限り、戦前と同じで日本人は変わらないという」
('90、朝日新聞、「余白を語る 淡谷のり子さん」)
 記事のここだけを読むと、おいおい、というだけの感想になりそうなのですけれど、じつはその前に、彼女は、戦時中に特攻基地を慰問した際の体験を語っています。
「十六歳ぐらいの少年特攻隊が二、三十人私の歌を聞いてくれたの。歌っている途中、私にニコニコ笑って礼をして、片道燃料で飛び立っていくの。私は歌の途中で涙がでてうたえなくなったの。なんて残酷なのかって」
 そして、若い人たちを死に追いやる軍歌は絶対に歌うまい、と思ったとも、
「人に死ぬことを奨めたり、殺すことを奨励する軍歌は歌じゃない」
 とも言う。そのあとに続く言葉だから「演歌も」なんですね。
 さきの戦争のあいだ、当局から自粛の指令が出ていたパーマ、ロングドレスの姿で、これも禁止されていた〝軟弱な〟恋の歌を毅然として歌い、山のように始末書を書かされながらもその姿勢を貫いた、という人です。淡谷のり子のそういうところはほんとうに好きだし、及ばずながらも是非そのようではありたい。撲滅運動云々も、唯々諾々と上には従い、あるいは、心を一にして戦争を推し進めたかつての日本と通底するなにかしらが演歌やひばりの歌に、その種の歌を好む人々の中にはあると感じての発言、小沢昭一の、


「軍歌はまちがいなく戦争用の麻薬だったのだ。軍歌で精神を麻痺させて死へ突入していった多くの兵士たちがいたことをおもえば、私はいまなお軍歌にコダワル」('78、『わた史発掘』)

 という言葉にも通じるものがあってのことなのでしょう、おそらくは。そう言いたかった気持のかなりの部分はわかるような気がしていますけど、
(でもね……)
 ではあるのですよね、私としては。
 朝日新聞にその記事が載って以来、二十七年。演歌は今大して人気がない。詞も曲も含めて、隘路に、隘路にと入り込んでいった感じで、当面消えそうにはないものの、主流に再びという気配もない。演歌の目下の状況にもかかわらず、「戦前と同じで」というのの方だけが、ということは、それとこれとは、同じ話ではないからなのではないか。問題はむしろ、黒船来航以来の西洋コンプレックス、明治期以降、強引に断ち切られ、追いやられてきたもろもろのもののツケなんかの方。先祖伝来の歩きかたまで、行進曲に合うように変えられてとか、歌でいえば、俗歌、俗曲を学校が禁止したとか、音楽教育機関が西洋音楽一辺倒だったとか、そっちの方。だって、へんな劣等コンプレックスこそいつ裏返ってニッポンスゴイになりかねないものなのではないの? 現に──というような気がする。
 じつは、私は、日本のセイガク系の歌も「苦手なんだよ」。日本語に合わないでしょう、あの発声はなどという理屈もまあありますが、たぶんほんとうは、小学校の音楽のセンセイのせい。島倉千代子の発声法をあれは正しくありませんと授業でわざわざ言うし、歌が上手なクラスの子について、
「流行歌の歌いかたよね」
 小バカにしたように言う、という西洋音楽至上主義者で、話す声からしていかにも声楽科の出身といった人でした。鼻濁音をうるさく言ってくれたことにだけは感謝をしていますけど、好きじゃなかった。蚊にくわれてと言ったら、まあ、食われたですって、と眉をひそめて見せたりもして、ああいうのも感じが悪かった。上記の記憶からくる偏見が私には相当あって、声楽系、流行歌が嫌いと聞けば、けっ、と反射的に思う。その辺のことを公平、公正に考えることは難しいのですね、私には。
 青森の豪商であった生家の没落後、淡谷のり子は、東洋音楽学校を大変な苦学の末に卒業したのだと聞きます。同じ演歌嫌いでも、良家の子女風だったあのセンセイとも、パリ留学までさせてもらった高木東六ともずいぶん違う。ネットで聴く若き日の声も含めて、立派、とは思いつつ、西洋音楽至上主義がベースにあるのでは、ゲイジュツじゃない、芸能全体への蔑視もとも疑ってしまう。
 一方で、オリコンで「春日八郎」をキーワードに検索してみると、軍歌のアルバムしか出てはこないだとか、彼の軍歌が右翼的、好戦的なコメントを添えて多数アップされなどという事態を見ると、彼女の危惧そのものはやはりねという気がしたり。ファンとしての依怙贔屓の気持もあったりで、なんだかまあややこしいことです。

 yoytubeで江戸太神楽をしばらく聴いてみたりするうちに、ああ、そういえば、と思い出しました。昔、日本の放浪芸を小沢昭一が集めたレコードというのがあった。会津近辺のものもあるかしら、とアマゾンをのぞいてみると、すでにCD化されていて、「年始万歳(会津万歳、福島)」というのがちゃんと入っている。八枚組、一万七千円也の豪華ボックスです。とりあえずは試聴だけしながら、こういうのも来たのかな、坂下にと考えてみる。ついでにほかのもいろいろと試聴するうちに、前に耳にした読経の声を今度は思い出す。父の葬式と初七日で聞いた派手な読経です。生家がそうだったはずというので頼んだだけの話で、聞くのは初体験でしたから、驚いた。お坊さんが三人もいて、そのコーラスはかなりソウルフル。派手な鳴り物も含めてなかなか良いものでした。
 そうそうとさらに思い出しましたが、大学の授業の一環として、京都、奈良の古美術巡りをしたのがたまたま親鸞生誕八百年だった年。西本願寺でだったと思いますけど、なぜか流れていたバッハのトリオ・ソナタと読経の声がじつによく合って、これは、もっと良かった。

 父の生家は日蓮宗。西本願寺は浄土真宗。会津坂下の惠隆寺はとみれば、こちらは真言宗豊山派。ならばとyoytubeにまた戻り、豊山派の総本山、長谷寺の「読経コンサート・和讃」というのを流しっ放しにして聞くともなくしばらく聞いた。耳にしていたのはもちろん、鐘の音だけなんじゃない、これもよね?


「『朗詠・和讃』から始まる古き日本の歌につながる生活の歌」──春日八郎、七八年『わが人生の輝ける歌』付属冊子

 本人がちゃんと書いてもいるんだしと考えながら。
 そう、武蔵野の森の近くに家があった昔、境内で遊んでいると、蟬の声なんかに交じって読経の声と木魚の音が聞こえてきたものでしたっけ……。なんだか懐かしいなあ。
(ところで、あのお寺は一体何宗の?)
 ふと思って確認してみれば、真言宗豊山派。ファンとしては、ささやかながら御縁が──と言いたい気持にもほんの少しばかりなったのでした。


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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