♪春日八郎アーカイヴ♪

>略年表1
1956
S31
(32歳)
初主演の『帆綱は唄う 海の純情』、本人役で出演の『別れの一本杉』等、3本の映画に出演。本業でも『トチチリ流し』『俺と影法師』『別れの波止場』とヒットが続く。

*監督鈴木清太郎(のちの清順)の監督第2作。佐藤禀一『演歌の達人‐高音(ハイノート)の哀しみ』』中の年表には「脈絡なく突然歌が飛び出すシュールなおもしろさ」とあるが、相当なドタバタ調である模様。
1957
S32

(33歳)
この年も『ごめんョかんべん『あん時ゃどしゃ降り』『苦手なんだよ』など後に代表曲となるヒットを連発。映画の方は美空ひばりと共演の『海の純情』、中村錦之助と共演の『恋風道中』等三本に出演。
1958
S33
(34歳)
『居酒屋』『別れの燈台』『海猫の啼く波止場』がヒットとなったほか、2本目の主演作『別れの波止場』、芸能生活10周年記念歌謡映画『赤いランプの終列車』を含む6本の映画にも出演。
8月、「永年の希望だった」沖縄での公演、及びハワイ(ホノルル)での十日間の公演。
12月2、3日、新橋演舞場で歌謡生活10周年記念リサイタルを開催。
1959
S34
(35歳)
マンボのリズムをとりいれた抒情演歌『山の吊橋』と『足摺岬』がヒット。ただし、この年の紅白では6月にリリースの『東京の蟻』を熱唱している。
写真は『山の吊橋』シングル盤ジャケット。→

*知名度は高くない『東京の蟻』だが、ドラムとサックスのイントロという春日としては異色のナンバーでなかなかの良曲。のちにセルフカバー
もしていることからすると、かなりお気に入りの曲でもあった模様。'16にリリースのオムニバスCD『昭和歌謡で聴く 東京の歌』にはオリジナル・バージョンの方が収録されている。
1961
S36
(37歳)
1月29日〜2月14日、新宿コマ劇場で歌手としては初の座長公演(コマ・スタジアム発行『『新宿コマ劇場52年史』による)。「マゲ物歌謡ミュージカル」であった模様(本人談)。
6月4日、『シャボン玉ホリデー』第1回にゲスト出演。ザ・ピーナッツの二人と。
1962
S37
(38歳)
“リバイバル・ブーム”の直後にあたるこの年、「『明治・大正はやり唄』を皮切りに他に先駆けて日本のはやり唄を吹き込」む(斉藤幸二「春日八郎は演歌の名人!/CDボックス『昭和歌謡を歌う』に付属の解説」)。
持馬スプリングエイトがダービーに出走(結果はフェアーウィンの15着)

*自伝には、ダービーをめざして出走、4着に入線したNHK杯の6日後、調教中の骨折により薬殺処分にとの記述があるが、他馬との記憶違い、あるいは他のレース後の出来事か。

*斉藤幸二(さいとうこうじ、1940〜)高橋竹山を見出したキングレコードのディレクター。1965年から春日八郎、三橋美智也等を担当。
1963
S38
(39歳)
前年に引き続き『春日八郎の 大正・昭和はやり唄』をリリース、『のんき節』等をカバーする。
6月に発売の『長崎の女』が久々の大ヒットに。
←紅白で『長崎の女』を熱唱。

*女と書いて「ひと」と読ませる歌謡曲の第1号でもある。
1964
S39
(40歳)
『長崎の女』のコンビ(作詞たなかゆきを、作曲林伊佐緒)による『ロザリオの島』をリリース、こちらは中ヒットに。
1966
S41
(42歳)
10月29日、東京宝塚劇場で歌謡生活15年記念リサイタル。3部ではフル・オーケストラをバックに持ち歌を歌いまくる。
この年、生家近くの立木観音入口に『別れの一本杉』記念歌碑建立。

*3部での試みについては、周囲にも危惧する声が多かったものの、かねてから「是非やって見たかった夢」と「頑強に主張してゆずらなかった」とのこと(矢野亮『春日八郎歌謡生活十五周年リサイタル』のLPに寄せて」より)。

ABC交響楽団をバックに、タキシード姿で→

1967
S40
(41歳)
株式会社春日プロモーションを設立、代表取締役に就任(自伝によれば歌手の個人プロダクションとしては「はしりに近い」)
1968
S42
(43歳)
日本レコード大賞「特別賞」を受賞。
1969
S43
(44歳)
SP時代のヒット曲をステレオ録音でセルフカバーする『春日八郎デラックス』シリーズの第1弾をリリース。
1970
S45
(46歳)
2枚組LP『黄金の歌声 黄金の歌声 1 春日八郎三橋美智也を歌う/三橋美智也春日八郎を歌う』で三橋美智也と互いの持ち歌を交換して歌い合う。
3月、よど号のハイジャック事件が発生。乗客の身代わりとなった時の運輸政務次官、山村進次郎が後援会長だった縁からか、『身代り新治郎』と題する歌を発表('72のベストアルバム『春日八郎 魅力のすべて』に付属のディスコグラフィーには記載なし)。
山村を通じて自民党に「目をつけられ」、同党公認での立候補騒ぎが起きる。

この年から翌年にかけ、『涙の軍歌』1、2など、軍歌、戦時歌謡のアルバムを制作。10曲、5枚分がシングルカットされる(うち1枚は戦時歌謡『満州里小唄/綏芬河小唄』のカップリング)。

*前記『演歌の達人』年表中のこの年の項には「軍歌を多く歌う」と特記。軍歌に対する春日の見解が「軍歌だって、切々と歌うことができる。一面では、演歌なのだ」「(一日も早くわが家に帰りたいなあ)(無事に、帰りたいなあ)そんな心の表現ともいえる」といったものであることからすると、'63年以来の「日本のはやり唄」を網羅しようという試みの一環と捉えていた可能性はあるが、そのあたりの事情は目下は不明。

*自伝によると、中曽根康弘を含む自民党の大物に日参され、「二キロもやせた」という事態となり、困り果てて逃げ回りはしたものの、押し切られた形で一度は観念。この件が一部メディアから報道され、「おかげでその年、出場ムードの『紅白歌合戦』は実現しなかった」りもするが、結局、立候補には至らなかった(野沢あぐむ『演歌への私怨』によれば、公認洩れによる断念)。

1971
S46
(47歳)
6月12日、東京厚生年金会館ホールで歌手生活20周年記念リサイタル「艶歌とともに20年」を開催(大阪でも6月に、10月にはハワイでも開催)。
1972
S47
(48歳)
10/22、10/23の2日にわたり、東京芝郵便貯金ホールでリサイタル「演歌とは何だろう」を開催。同年の文化庁芸術祭音楽部門で流行歌手としては初の大賞を受賞し、話題を呼ぶ。
最初の自伝『どしゃ降り人生』(日本図書販売・出版れいめい)を発行。
1973
S48

(49歳)
リサイタル「演歌とは何だろう」のアンコール公演を開催(会場、期日等は不明)。
日本の流行歌カバー・シリーズとして8枚組のLPボックス『春日八郎 演歌100選』をリリース、第15回日本レコード大賞企画賞を受賞する。
1975
S50

(51歳)
10月26、27の2日にわたり、東京郵便貯金ホールで「キングレコード創立45周年記念リサイタル さらに演歌を見つめて」を開催。
2枚組アルバム『春日八郎 古賀メロディーを歌う』をリリース。
演歌を志す若い歌手に歌う場を提供する「演歌をきく会」(のちに「演歌を育てる会」と名称変更)に「手弁当で」参加。

*このリサイタルではコロラトゥーラ・ソプラノの森田克子とのデュエット、琴の伴奏で歌うなどの新たな試みもなされている。
1976
S51

(52歳)
1月24日、浅草国際劇場で25周年記念リサイタルを開催。
NHK『ビッグショー/今夜はしみじみ、歌おうじゃないか』に出演。

*このときの映像はNHKには保存されていないため、VHSなどで『ビッグショー』として出てくるのは林伊佐緒の回にゲストとして出演した際のもの。
1977
S52

(53歳)
5枚組LPボックス『日本の歌/明治・大正・昭和はやりうた(全60曲)』をリリース。
1979
S54

(55歳)
9月、25年ぶりに船村徹とコンビを組んだ『夜行列車/波止場ばなし』をリリース。
秋、翌年にかけて続く「列島縦断リサイタル」をスタート。
1981
S56

(57歳)
9月、2冊目の自伝『ふたりの坂道』を翼書院から出版。
11月23日、芝郵便貯金ホールでキングレコード創業50周年記念、歌手生活30周年リサイタル「歌こそ我が生命」を開催。20枚組の記念LPボックス『歌こそ我が生命/春日八郎大全集』、記念アルバム『明日への出発』をリリース。
日本歌手協会の常任理事に就任、また、故郷会津坂下町の名誉町民ともなる。
1983
S58

(59歳)
10月、ラジオたんぱでDJ担当の2時間番組『春日八郎のしんみり演歌大全集』の放送開始(半年間で終了ののち、『春日八郎の演歌横丁』『春日八郎の人生バンザイ』とタイトルを変えつつ5年間継続)
1984
S59

(60歳)
NHK『この人 春日八郎ショウ』に出演、夢は「男がいた、そして生きた、そして、歌った。それが、はっきり言えるような歌い手」とあることと語る。

*全文はこちら
1985
S60

(61歳)
1月、浅草公会堂・スターの広場に手形を納める。
←サインと手形。
1986
S61

(62歳)
10月3日、芝郵便貯金ホールで歌手生活35周年記念リサイタルを開催。

*このリサイタルの映像は
こちら。
1987
S62

(63歳)
俳優・歌手等、実演家の地位向上をめざす公益社団法人、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の理事に就任。
1988
S63

(64歳)
三橋美智也、村田英雄と共に「三人の会」を結成、チャリティ・コンサート活動等を行う。
この頃から健康状態に陰りが見え出す。
1989
H1

(65歳)
日本歌手協会理事に就任。
秋の紫綬褒章を受賞。
9月26日、新人歌手時代からの友人、金田正一からの電話で『笑っていいとも!』に出演。
暮には11年ぶり、生涯最後となる紅白出紅白歌合戦に出場し、『お富さん』を歌う。
1990
H2

(66歳)
8月、ラスト・シングルとなるCD『旅人/新宿むかし通り』をリリース。
1991
H3

(67歳)
3月30、31日、大阪中座で40周年リサイタル開催。
5月21日、キングレコード60周年記念としてCDボックス『春日八郎 大全集〜歌こそ我が生命』発売。
6月、左大腿部腫瘍摘出のため入院(医師の左脚切断の提案は本人が拒絶)。
9月6日、中野サンプラザで催されたキングレコード60周年コンサート「歌謡パレード」に療養先の病院を抜け出して出演。これが最後の舞台となる。
10月22日、肝硬変と心肺不全により永眠。享年満67。
没後、勲四等旭日小綬章を受賞。

*'92年10月21日に発売のCDのタイトルは『絶唱〜春日八郎40周年リサイタル』(2枚組、廃盤)となっているが、『偲』(春日八郎偲ぶ会会報)22号には入院中の本人の「今年、40周年のイベントはできなかったな」との言葉が紹介されているため、過去の記念リサイタルと同じ位置づけのものであったかどうかは不明(CDは未見)。
上記サイトによれば、セットリストは以下の通り。
1.お富さん 2.ギター流し 3.苦手なんだよ 4.別れの波止場 5.ロザリオの島 6.足摺岬 7.長良川旅情 8.旅人 9.居酒屋 10.ごめんョかんべんナ 11.浮草の宿 12.母の便り 13.演歌ひと節 14.男の舞台 15.雪国の女 16.別れの灯台 17.長崎の女 18.あん時ゃどしゃ降り 19.風林火山 20.雨降る街角 21,別れの一本杉 22.山の吊橋 23.赤いランプの終列車 24.裏町夜曲 25.夜行列車 26.瓢箪ブギ 27.エンディング (赤いランプの終列車)
*CD-BOXは同名の三橋美智也のものと同日の発売。

(文中敬称略)

参考資料
書籍、雑誌
春日八郎『ふたりの坂道』春日八郎『どしゃ降り人生』『偲』No.11〜25 三省堂『日本芸能人名事典』 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』 長田暁二『昭和はやり唄秘話』 長田暁二『戦争が遺した歌』 川口幹夫『冷や汗、感動50年‐私のテレビ交友録』 森彰英『なぜ演歌なのか』 船村徹『酒・タバコ・女 そして歌』 船村徹『歌は心でうたうもの』 佐藤禀一『演歌の達人‐高音(ハイノート)の哀しみ』 朝倉喬司『遊歌遊侠─今年の牡丹はよい牡丹』 橋本治『恋の花詞集‐歌謡曲が輝いていた時』 色川武大『なつかしい芸人たち』 北中正和『にほんのうた‐戦後歌謡曲史 』 なかにし礼『歌謡曲から「昭和」を読む』 小泉文夫『歌謡曲の構造』 菊池清麿『昭和演歌の歴史 その群像と時代』 今西英造『演歌に生きた男たち』 島野功緒『昭和流行歌スキャンダル‐そのときヒット曲は生まれた』 飯島哲夫『上海帰りのリル‐ビロードの唄声 津村謙伝』 三橋美智也『ミッチーの人生演歌』 吉田進『パリからの演歌熱愛書簡』 池田憲一『昭和流行歌の軌跡』野沢あぐむ『演歌への私怨』 野沢あぐむ『艷歌千里を走る』 立川談志『談志絶唱』 中野正昭『ムーラン・ルージュ新宿座─軽演劇の昭和小史─』読売新聞社文化部『この歌この歌手』(順不同)
ライナー
ノウツ
『春日八郎 昭和歌謡を歌う』(CD)『春日八郎 花のステージ』『春日八郎リサイタル』『リサイタル さらに演歌を見つめて』『黄金の歌声・1』『春日八郎 魅力のすべて』他
ネット
春日八郎記念公園・おもいで館、会津への夢街道(偉人伝/春日八郎の項)、竹木貝石『わたしのナツメロ物語』、福島県ホームページ(会津で最古の寺院、恵隆寺の項)、CDジャーナル公式サイト他

>略年表1


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