♪春日八郎アーカイヴ♪

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記憶の中の白いもの
2017.6.12記

 先夜たまたま見たサイトの掲示板にこんな書き込みがありました。

「町体育館の完成こけら落としは春日八郎ショーじゃったと、大人の中にまぎれこんじぇ見た舞台の上には、まばゆいライトの中に、真っ白のタキシードを着たホンモノの春日八郎が……。身震いしたよ。そん記憶は五十年たった今じぇも鮮明に眼に浮かぶろ」──数え歌「ほとくり掲示板」

 輝くタキシードにスターの「オーラを感じたとよ」という話し言葉は、私にはちょっと懐かしい島の方言。日付を見れば先月のものでしたから、見たのは'67年だったということになる。父の故郷、種子島に私がただ一度だけ行ったその年です。
 体育館は南種子高のすぐそばであったのこと。私たちが行ったのは北部の西之表だし、同じ八月であった可能性はそう高くなく、年数の方はおよそである可能性が高い。ここにもささやかな御縁が、またはニアミスがというには無理がかなりありそうなんですが、近い時期の話なのはまず間違いない。山陽新幹線はまだない、島に渡るにも船以外まだない頃の話で、よくまあ、遠路はるばると僻地にと私は思い、『エルヴィスはあなたの故郷で歌ったか?』なんていう本もあるのだったっけ、と思い出しもした。'55年から7年にかけて、ということは、種子島のこのショーのおよそ十年ほど前の頃には、まさか、と思うような小さな町にもコンサートをしに行っていたのですからね、エルヴィスも。
 体育館があったところは今は更地となり、お隣だった南種子高も七年前には閉校。大花里の祖母の家なんかはもうとっくの疾うにない。半世紀が過ぎ去ればどれもまあ、当然で、むしろ、時を経てもなお鮮明に残り続ける記憶の方に感心するべきところなのかもしれません。
 youtubeの動画の一つにも、


「白のスーツで、後ろ向きに立ってて、音楽が始まると、振り返り歌い出した、今も、懐かしく思い出します。かれこれ半世紀前になりますかね」──Siko Aoki

 などというコメントがある。振り向いて歌い出したのは『赤いランプの終列車』。見たのがどこかまではわかりませんが、ほぼ同じ時期の話。さらに、べつの有名サイトにはこんなコメントもあります。

「二十数年前の夏、妻の実家のある会津の坂下に行きました。その時丁度地元出身の春日八郎ショーが会館で行われていました。(中略)私の妻も春日八郎ももうこの世にいません。この歌を聞くと妻と見に行った春日八郎の白いタキシード姿が目に浮かびます」──akichan「二木紘三のうた物語」

 こちらは十年前の投稿で、歌は『別れの一本杉』。時期からすると彼が同町の名誉町民となった'81年のことかも、とも思いますけれども、ここでも目に残るのは純白の衣装。
 白いスーツ、または白いタキシードの記憶を語る人たちはほかにもちらほらといて、私は、例の旅芸人たちについてのあの一節を思い出してしまう。
「この連中が、そろいの白いモモ引きをはいていた。わたしたちの仲間では〝パッチ〟とも呼んだそのモモ引きに、たまらない羨ましさを感じたのである。白いパッチはいかにもカッコよかったし、あたたかそうでもあった」
 常時着ていた絣の、「つぎだらけの着物を恥ずかしいと思ったことは一度もない」。それでも、あんなものをいつもはいていられたらとは心から思った、とも彼は書いている。太鼓の音に血が騒ぐ思いのうちいくらかは、貧しさからの脱出を夢見る気持でもあり、いくらかは、真っ白いそのパッチへの切実な憧れでもあったのだ、と。よく似合いもし、よく着もしたものらしい白のステージ衣装の写真を見ると、ことにズボンを見ると、あ、パッチ──とそれでつい思うのですね。
 '91年、九月の六日に開催されたキングレコード60周年記念行事に、彼は病室を抜け出して参加、『長崎の女』を歌います。翌朝のスポーツ紙を読んで、「俺の声はまだ、会場のうしろにまでビンビン伝わった」と、おそらくは嬉しそうにであったのでしょう、言ったというエピソードを読めば、今度は、ムーラン・ルージュでのあの話を思い出してしまう。そしてどちらにもよかった、よかったと言いたいような、切ないような気持にやはり少しばかりはなる。
 自伝的〝事実〟の反映、読みまくりよねとも思いますが、まあ、歌にというわけじゃない、ということでここは目こぼしをしてもらいます。
 ちなみに、生涯最後のこのステージで彼が着たものも白いタキシード。画質の悪さがむしろありがたく思えたyoutubeの動画でも、痩せた体には明らかに大きく見えたタキシードでした。

 過剰に懸命にならずには生きられないタイプの人の人生には、どこか切ない、物哀しいような気配があります。春日八郎もその例外とは思いませんが、彼にはひばり、エルヴィスのああいう痛ましさはあんまりない。多少早かったにしても不慮の死でもない。没後にもそう伝説化はしない理由もそこにあるのではと思うぐらいで、なりたかったものになり、生涯のほぼ終わりまでそのままでいられた人の、いい人生と私には見える。でもだからこそかえって、という感じでドウ生キテミテモ人ハイツカハ老イテ死ヌモノダ、とも思わされはするのですよね。
 彼の歌もまた、歌手自身の個人的な幸不幸を一々想像させるようなものじゃない。どんな気分のときにでも楽に聞けるのも、だからなのでしょうけれど、その分、〝人生そのものの哀しみ〟みたいなものはかえってひしひしと感じもするし、慰撫もまたされる。そんな気がなんだかします。
 ここにあったはずの時間は片端から遙かな過去になり、いた人たちは、一人、また一人と去っていってやがてはこの自分もいなくなる。そんなことを意識しながら生きていかなければならないイキモノだというの自体、そもそも難儀な上に、日々の暮らしのありようも、せめてのよすがにしたい景色もおそろしい速度で変わり続ける。東京なんてもう、見る影さえない変貌ぶりで、
「どうしたどうしたどこ行った」
 そんなフレーズだってやけにリアルに身に沁みてくる。かてて加えて、あの震災と事故ではさらに膨大なものを私たちは失い、この先にもおそらくはとなれば、身に沁みかたは一入。まだ残るらしい日々のためのお守りに、過ぎ来し方の形見の一つぐらいはほしくもなろう、というもんです。
 郷愁という言葉には、望郷、懐旧の二つの意味があるように、多くの言語がその二つを明確には区別ができないように、二つの思いはたぶんもともと、分かちがたい。そしてまた、なんで? と思うほど、歌の中の情景を〝今・ここ〟に連れてきてくれるのですね、彼の歌は。
 その情景には時代の空気も当然含まれている。だからこそ、強制的追想のような現象もと言いたい気はしてきますけれども、もっとずっと若いファン、他国のファンにとっては、さあ、事情はどうなんでしょう。あの声、あの節回しだけで十分だということなのか、過去の縁の有無には関わらず、なにかしらの郷愁を感じはするのか──やはり、ソラリスの心優しい海だからということか?
 機会があれば、その辺、是非訊ねてみたいところではあります。

* 章のタイトルは、横井弘作詞『これが人生』('64)の二番の最後の部分で、春日八
 郎 が一時期好んで色紙に書いたという「風花や 記憶の中の白きもの」からの借用。

肩を寄せ合い聞くもよし
2017.6.24記

 かくかくの事情で貴町旧体育館がいつ頃建ったものなのかを調べております、なにとぞ、御教示のほどを──とのメールを南種子の町役場に送信したのは今月初め。かなり昔の、それもすでにない施設のことで、無理かもとは思いつつでしたが、数日後に返信が到着。月日がわかる資料こそもう見当たらないものの、年なら昭和の四二年で間違いがなく、往時を知る人からも、「たしかに、春日さんのショーがあった」と確認できたのこと。白いタキシードの記憶はおよそではなく、ちょうど五十年前のものだったと判明。私自身が訪れた年のことともたしかにわかって、なぜかちょっと嬉しい気持になりました。南種子町区役所企画課さん、いろいろ、ありがとうございました。
 でも月まではまさか同じじゃない。むしろ、そう思いたい。なにしろ私たちが行ったのは七月下旬から八月上旬、全国的猛暑だった年のその時期とあって、島は凄まじい高温。暑さもまた昔から「苦手なんだよ」で、ここにはもうこれきりでと思い、実際、二度とは行かなかったぐらいのものでした。
 とにかく暑いので、昼はただただ昼寝のみ。それでも日が傾くのを待って浜にまで出れば、海から吹く風だけは涼しいのですね。空も、透けて底まで見えそうな海も絵葉書のままの青一色。夜になってまた出れば、今度は墨でも流したような、という通りのこれも一色。沖に昼には見えていた馬毛島はもう闇に溶け、月影の下、寄せる波だけがきらきら、と光っていた。
 さきの戦争のときには、この砂浜には溺死体がいくつもいくつも打ち上げられた、馬毛の浜にもじゃったよと、あれは、たしか伯母に聞いたのでしたっけ。おかげで、浜に寄せてくる無数の光が死んだ人たちが手に手にかかげ持つ灯火に見えて、怖かった。とても綺麗ではありましたけどね。
 島では、夜は今でもあんなに真っ暗で、月は、あんなに明るいままかな、もう違うかな?
 それにしても一体どの船から漂着したものだったのか、
(まさか、大和からでは遠過ぎるだろうし)
 気になって少し調べたら、種子島の西方の沖で撃沈された輸送船からで、撃沈の時期は'45年の二月。陸軍歩兵、渡部実の乗る輸送船が基隆の沖合いで座礁、なんとか台北にまでたどり着いたのと似たような頃で、どちらも、あの夏から遡れば二二年前のこと。今から遡ったあの夏と比較してみれば、遙かに近い過去のことでした。

 そんな光景を妙にありありと思い出したのは、島言葉の書き込みと島からのメールのせいではありますけれど、たぶん、いくらかは、先日海ほたるのデッキから見た海のせい。久々に視界いっぱいが海と空ばかりなどという景色を見てきたせいでもあったんでしょう。でも、どうしてなんでしょうねえ? 海って、いつまで見ていても飽きない。そう思うのは私だけではないらしく、「春日八郎偲ぶ会」の面々の中にも、ただ黙々と海の方をという向きは少なくなかったのでした。
 というわけで、ご報告が後先にはなりましたけど、じつは先月、「全国春日八郎偲ぶ会」にえいやっ、と入会。月例会にまずは出席して顔見世ののち、日をあらためて、木更津へのバス旅行に参加、『お富さん』ゆかりの地で切られ与三の墓にも詣で、近くの酒造では辛口の銘酒、「お富さん」も買った。興味深い──当然、春日八郎に関する───話もいくつか聞いて、満足、満足で帰途についたという次第。ええ、なかなかいいものでした、大人の遠足は。
 バスに乗り込むとすでに流れている歌が嬉しい。もちろん会が会です。超有名曲ばかりであるはずもなく、初めて聞く歌なんかもかかる。うしろの座席の会長さんに、
「これ、なんでしょう?」
 振り返って訊ねればすぐに教えてももらえて、嬉しいの自乗。入手できていないビデオも車内で初めて鑑賞、これがまたよくて、是非ヤフオクでゲットしなくてはと思い、家でももっといい音で聴きたいともつい思う。
 そういえば、以前見たオーディオ・マニアの人のブログに、某社の某イヤホンで春日八郎を聴いたら、高音部にぞくぞくっ、とするような艶がとかあったのでした。並のアンプよりはいいぐらいの値段のものなので、見なかったと思うことにはしたものの、違うと、違いますからね、オーディオって。
 ずいぶん以前、近所にオーディオ・マニアの知人がいたことがあって、彼のアパートの部屋には、小型冷蔵庫ほどもあるスピーカーが鎮座していたのでしたっけ。闇に輝く真空管アンプはもちろん手製。一度だけ何人かで押しかけて、お隣いいの? とは思いながら何時間か聴きました。なにを聴いたのかはもう忘れても、音がとても素晴らしかったことはまだちゃんと憶えている。なにしろ、翌日すぐに中古のタンノイを買ってきてしまったほど、インパクトがあったのでしたから。
 残念ながら、今の部屋では大きくは鳴らせない上にまともには配置もできず、その辺はもう、あきらめたつもりでいたのですけど、バス旅行以来、なんとかならないものかと思ってしまう。そこそこいいイヤホンかヘッドホンなんかがあれば、少なくとも今よりは、等々と。
 誘惑にはもともと弱いたちです。ぞくぞくっの〝ぞく〟ぐらいでいいから体験したい、でも資金がねと数日じたばたの末、夏の服は──たぶん、秋冬の服も──今年は見送って、ということで、某社は某社の製品ながら、分相応からやや背伸びという程度のものを購入。まずはウォークマンで試してみると、高音ばかりではなく、中低音部も大変クリア。例の終助詞も細部に到るまでよく聴きとれる。歌により、詞によってさまざまな消え際だってじつによく違いがわかるのですね。『酒は涙か溜息か』のあの二箇所の「か」なんかは、それこそ微かに瞬いてから砂に消えていく夜の波の風情。あきらかに前よりもぞくっときます。
 しかも、何曲かでは前のイヤホンでは気づかなかったブレスの音が聴きとれたりもする。今のところは気がついたのはどれも女歌、それも終わったか見通しの暗い恋の歌ばかりとあって、うーん、と感心するような、半ばはあきれるような。
 この感じだと、ほかのももっとちゃんと聴き直さなくては、
(それに、月例会で歌う歌だってそろそろ決めて練習しなくては……)
 まあ、そんなこんなで、目下は閑中忙あり、または、薄暗い日々の中での此処での一と殷盛り──とでもいうところ。やっとみつけた『岡晴夫を歌う』が無事届いたら、もうそう突っ走らずに、手許にすでにあるものをゆっくり、じっくりと聴き返し、先輩方のお話もまたじっくりとと思っています。
 とはいえ、「春日八郎偲ぶ会」編纂の大部の資料、『春日八郎歌謡史』のディスコグラフィーをじっくりと見れば、興味津々の音源(*)がまだずいぶんある模様。知れば知るほど煩悩がという可能性がないこともなく、
(現に、見たおかげで欲しくなったビデオも一つ、)
 などと思うと、少々怖いのですけれどもね?

*興味津々の音源
三橋美智也の『慕情』とカップリングの非売品シングル盤『枯葉』('71)、やはり非売品の『新相馬節/さのさ』('72)、すべて不明ではあるものの、大瀧詠一のアレでは、と推測される『恋するカレン』等。


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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