黄金の季節、黄金の声
2017.4.2記
できることなら、選んだ一曲ずつについて音楽的な考察などをしてみたい。みたいとは思うのですが、残念ながら、ハバネラとタンゴの違いもよくわからない。だけではなくて、私は楽譜もそうちゃんとは読めません。
現に、お気に入りの『満州里小唄』にしても、元唄の『雪の満州里』と節が二ヶ所違うことまではわかっても、どう違いますと譜では言えない。たとえば、歌い出しの「積もる吹雪に/暮れゆく町よ」の「暮れゆく」は、『満州里小唄』の譜面にはドドレミー、とあるわけなんですが、
(元のでは、えーと、ここ、半音とかつくのかな? え、つかない?)
ディック・ミネの震えるような声を聞きつつ悩んでいるうちに、ジャーン、とシャッターが頭の中に下りてくるという体たらく。ちなみに音源二種を送って、この箇所はと聞いてみた──バンドではキーボードとボーカル担当の──知人によれば、
「私にはACDEに聞こえるけど? なにもつかない」
つまり、階名に直して言えばただのラドレミーだということなのでした。
(言われてみれば、たしかにそのような気も……)。
見ての通り、波止場シリーズ・一の〈別れの波止場〉はごく月並みなラインナップで、これに『別れの一本杉』と『お富さん』を足し、さらに『居酒屋』『長良川旅情』『ロザリオの島』のうちから一、二を足せば、キング・レコードから毎年出るベスト盤とそう変わらない。
これは大全集入手前に組んでいたものをベースにしたせい。この際だから、全部どがじゃがに一度してから組み直す、もとのを生かす。二択でしばらく迷ったあげく、こちらはほぼそのままでということにして、二曲(『お富さん』『波止場で待ちな』)を外し、代わりに二曲(『俺は一人ぽっち』『どしゃ降り人生』)を足した。足し引きをした結果曲順も変化したというだけの話で、とくにここで書くほどのことはありません。
ひょっとしてまた、強制的追想が起きてくれないものでもない。引金となるらしいナニモノカが擦り減らないように、もうしばらくは寝かせておきたい。そうも思うので、今繰り返して聴いているのはもっぱらカバー曲の方のベストと〈東京波止場〉──というわけで、ここでもその二枚についてだけごちゃごちゃと少し書きます。
通しで大全集を聴いてみた結果、まず判明したことは、好みに一番合うのは'60年代半ばの声ということ。これまたごく月並みな好みなんですが、ネットをいろいろ見ると、春日八郎の声がいいのは、「初期の五年のみに限る」(竹木貝石『私のナツメロ物語』)と断言する人だっている。デビュー以来の熱心なファンだとのことで、
(懐かしさを基準にした結果?)
そうも初めは思ってみたものの、読めば、細部までをよくよく聴き込んでもいる人で、これはやはりそれぞれの好みというもの。たしかに、初期の五年とそのあとでは彼の声は色が違う。そして私自身の好みには、そこからさらに少し経った時分の声、'60年代中期の声がよく合う。この時期の、ほぼどの歌での声も私の耳にはじつにゴージャスに響くのですね。
「悲しいほど美しい声であった」というのはこのことかと思うような高音、切れまくる小節。中、低音部は響きを前よりも増し、のちにはやや減る軽み、さらに減る適度のはしたなさも曲によればあって、もう、すべての札が彼の手のうちには揃い、みたいな感じ。〝黄金の声〟と謳われた名優、サラ・ベルナールのごとく、ただのメニューを詞にして歌っても聴く人を泣かせかねない。あのアルバム・タイトルもそこからの連想かしら、と思うぐらいであるにもかかわらず、ヒットと呼べるほどのヒットの最後が'63年(『長崎の女』)、せいぜい'64年(『ロザリオの島』)までというのはなにごとか。
'67年以降についてはまだわかります。時代の嗜好はグループ・サウンズにシフトしているし、演歌とのちには呼ばれるようなものだけを見ても、森進一、青江三奈、クールファイブに藤圭子とこれまでにはなかったタイプの若手、あ、新しいと感じさせる曲調の歌が出揃い、ここに割って入れる新曲をというのはかなりの難題。春日八郎のこの年の『東京波止場』、集のタイトルにもしているぐらいのことで、相当好きですけどね。
'65年もまたべつの意味でわかる気がする。この年はなにしろ、『兄弟仁義』『涙の連絡船』『函館の女』と演歌系の重量級ヒットがもう目白押し。佳曲だとは思う『北国の駅』も、『利根の恋唄』も『毎度おなじみ流し唄』もここに立ち交じってのヒットに、というのには線がちょっと細い。
惜しいなあ、と思うのは翌'66年で、個人的には、この年出た歌には好きなものが結構多く、集中にも五曲(『熱海の雨』『ギター流して三年目』『無情の旅』『相馬恋しや』に『波止場で待ちな』)を入れています。ただし、曲自体がどれだけいいものか? と聞かれれば、彼のこの時期の声と節回しがやや好き過ぎて、判断にはそう自信が持てません。
緋毛氈の上でお茶を点てつつ、
「あーあーあ、きょおおとお、ごふくのぉ、うつくしさぁ(原文ママ)」
などという「字あまりの詞」に、わりにどうでもいい(らしい)メロディーで歌うひばりのCMについて、
「ほかの人が出てきて、これを歌ってお茶などたてたりしたら、いやになってしまうけれど、ひばりならよろしい」
武田百合子が書いたようなことが──とまではまあいいませんけれども、ヒットする、しないという観点から見れば、どれも、なにかが微妙に足りない気がしなくもない。題がなんだかなあだとか、詞が今一ではだとか、もう五年前に出ていたらとか、まあいろいろと。
ムード歌謡風、'50年代以来のおなじみの路線、股旅物、新民謡にラテン調。目先を変えて試してはみているだけに、どれか一曲がせめて、小ヒットぐらいしていたのなら──と、死児の齢を数えるようなこともついついしてみたくはなるわけです。
『お富さん』の特大ヒットに一度は呪縛されかけたように、『別れの一本杉』や『長崎の女』のヒットも、いくらか違うかたちでその後の行く道を多少は狭めたのじゃないかしら、とも想像するからで、
(ここらで一つ、今までとは違うタイプのヒットが出ていたら……)
'70年以降にも、その年齢にふさわしい代表曲を持てていたかもと、つい、無いものねだりの夢を見るという次第。
〝昭和の大名曲〟『別れの一本杉』をわざわざ少し半端な位置に置いたのは、半ばはそんな思い入れの故。半分は、普通にいい曲の中に普通に放り込んでみた方が、かえって良さが生きる気がしたからですが、この目論見が果たしてうまくいきましたかどうか?