♪春日八郎アーカイヴ♪

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──マドレーヌ?
2017.3.8記

 そしてほどなく到着した『ステレオ録音によるヒット曲集』の一と二。
 やっぱりこの声よといそいそしながら四、五曲ほど聴くうちに、不意に、遠い昔に住んだ家、その周辺のさまざまのものが目に浮かんできて、懐かしくって、もうたまらないという気持になりました。
 電球の上のガラスの白い笠、笠の上の薄暗がり、溜まり水にこぼれて光るガソリン。家の裏手の銭湯のカランの前の絵(緋鯉が滝登りをしている絵)、水銀メッキがところどころ剥がれかけた鏡、その他。
 子供の目の高さから見えたものらしい細部の、なんとまあ鮮明であったことか。
(でも、なんで?)
 武蔵野の一角にあるその家に住んでいた時期は、'53年の終わり近くから、'59年八月半ばまで。
 集まり始めていた資料によれば、『雨降る街角』リリースの少し前から『山の吊橋』リリースの直前、ということは、ヒットの数だけからいうのならまさに絶頂期。その証拠にはとでもいうように、CD二枚に収録された曲の大半が同時期のものです。
 それはまたちょうど、〝春日八郎の歌についての私の記憶〟が始まる直前までの時期ということでもあって、というわけで、つまり、もう一つの不思議はこの一件です。
 オリジナルの音源を聞いての反応というならまだわかります。どこかではじつは聞いていて、意識下では憶えていたでいい。でもこの場合、紅茶に浸したマドレーヌは再録音盤で、吹き込まれたのは──レコードの発売時期から推測すれば──'70年前後。声も歌唱法もオリジナルの録音とはかなり違うし、テンポもアレンジも同じではない。
 それなのにどうして、ちょうどその時期の、あの光景が見えてきたわけか。
 そしてまたどうして、オリジナルの音源には反応しなかったのか。
 予期とは違う歌声の処理に脳が追われていたせいか、単に、ほんとうに初めて聞くものであったからなのか?
 ここでまた、だとしたらどうして? と最初の疑問に戻って無限にループするという次第。

 音楽がいたるところに氾濫する昨今とは事情が違います。
 厚い布のカバーがかかっていたテレビはもちろん、ラジオもそういつもはついていない。
 家にはごく小さい電蓄と、五、六枚のレコード以外ない(その中には無論、春日八郎のは含まれていない)。
 始終音楽を流す店なんかが近間にあったような気もしない、有線もない。
 ない、ないと指を折るうちに、あれ? と気がついたことが一つある。三橋美智也なら聴いていたような、という気がなんだかするのですよね。『赤い夕陽の故郷』も、『夕焼けとんび』もその頃から歌えていたのだし、といってもたぶん、サビだけではあったのでしょうけど。
 右の状況で、どこでいつ聞いてと考え合わせてみれば、学校で、友達の歌うのを聞いてでしょうね。だってほら、夕焼け空がまっかっか、お猿のお尻もまっかっかとか、そんな風に歌っていはしなかったっけ? イデ君だのワタナベ君だのが。
 掃除の時間には、男の子たちはハタキの柄で机を叩いては、俺らはドラマーともよく歌い、横でアハアハと笑いながら聞くうちに私も憶えた。たぶんそういうことですが、なぜか、同様にして憶えたはずの『若いお巡りさん』『おーい中村君』の場合とは違って、
「ちゃんと、あの声で思い出すのよね、三橋美智也の」
 そこだけが不思議で、と、一つ半上の姉に電話で話してみたところ、
「盆踊りでなんじゃない」
「──え」
「だから、曲の方はね? クラスの子が歌うので憶えて、声はそっちで」
「ああ……」
「そういう歌がじゃないけれど、ずいぶんかかったでしょう」
 なるほどね。
「『炭坑節』だったっけ」
「それも、もう忘れたけどほかにももっと、いろいろと。春日八郎もたぶんどこかでは聞いているはずよ? うちのラジオでじゃなくても。だって、家族で町にだって行ったじゃない。行けば食堂にも入るわけだし。あと、たまにだけど床屋も行ったでしょ」
 姉は言い、私はうんうん、とうなずいたのでした。


 ・三橋美智也は子供にも人気があった(声も歌もとっつきやすかった)。
 ・ラジオやレコードをよく聴くうちの子が学校でもよく歌った。
 ・聞き憶えた曲
に、盆踊りで耳慣れた声がミックスされたかたちで残った。
 ・テレビその他であとから聞いた声が上書きされて、古い記憶と混同された。


 大体、そんな話で──という線で、この件については納得したものの、肝腎の不思議の方は、不思議のまんまに残り、
(一体なんだったのか、あれは)
 今もときどき思います。突然の、あの〝強制的追想〟とでも呼びたいものは、ほとんど泣き出したくなるようなあの思いはと。


'70年代初頭のニアミス
2017.3.15記

 言語化された索引を持たない記憶、エピソードの一部にもとくにならないで残った記憶は、地雷にも、タイム・マシーンにも少し似ています。
 なにかに引金を引かれた途端に、ひどく鮮明に、〝今・ここ〟に立ち戻って人を驚かせる。ときどきは、過去のその時間に自分の体をとりまいていた空間自体が、〝今・ここ〟と二重写しにでもなって現にあるような気もする。ほとんどの場合、ごく短いあいだのことながら、尾は案外長く引く。

 オリバー・サックスの医学エッセイ、『妻を帽子と間違えた男』の中に、「追想」と題する章があります。ある高齢の女性が軽微な脳卒中の発作を起こして、血栓がしばらくのあいだは残る。血栓は約三日間にわたり、側頭葉癲癇を引き起こしますが、側頭葉が「追想をつかさどる場所」であるために、彼女の脳の中では、幼い頃耳にしたアイルランドの音楽が響き続けることになる。
 彼女は誕生以前に父を、五歳で母を失い、アイルランドからアメリカの愛の薄い親戚のもとにひきとられて育った人で、故郷での五年間の記憶がほとんどない。思い起こそうといくら努力しても成功せずにいたのが、発作からしばらくは、昔聞いていた歌の数々を鮮明に聞き、夢の中では、母の姿を見る。そのあとに続いた、
「長い夢見心地のなかで、彼女は失われた大切な子供時代をとりもどしたのだ。彼女が感じていたのは、たんなる『発作性の快楽』ではなく、心がふるえるような深い喜びだった」
 とサックスは書きます。強い郷愁をともなう発作は、「消えてしまった過去、忘れられた過去」へと続く扉を開け、「長いあいだいわば根なし草のようだった」彼女は、「心理的に安定し、現実感を得ることができた」と。
『ステレオ録音によるヒット曲集・1』を聴きだしたときの、通常のものより強く、尾も長く引く不意打ちのあとで思い出したのがこのエピソード。時の長さも、経験としての深さもずいぶん異なりますが、どこか似てはいて、あとあとにまで、喪失感に近い感情と深い安堵に似た思いを共に残すものだった。もちろんこちらの場合、歌は脳の外側に、それもほんとうに存在していたのだし、結果ではなく、逆に引金の方。ただし歌のどの要素がかはわからないというわけなんです。

 武蔵野のその旧居の近くには、じつは数年後にまた住んでいます。元の家からは、歩けばまあ歩いて行ける距離。一年ほどの、父の仕事の都合での仮住まいながら、考えてみれば、行った大学もその近辺で、通った時期は'70年四月から'74年三月。CDのもととなる再録音盤、〝デラックス〟シリーズ中の一から三は、'69年から'72年にかけての発売。時期は重なっている。
 もしや、とも一瞬思いはしたものの、どうも、その当時の記憶だとは考えにくいのですね。十数年は前のヒット曲のセルフカバーで、しかも、アルバムです。巷にどこまで流れたものか?
 ラジオにしてみても、当時私が聴いたのはもっぱら洋楽の番組でした。エルヴィスにすっぽりはまっていたからで、なにが、「美声よりもハスキーな声」かなんですが、これは例の『エルビス・オン・ステージ』の影響。
 買うレコードもほぼエルヴィス一辺倒ながら、姉のご贔屓のローリング・ストーンズも、ニュー・アルバムが出る度につきあって聴き、貰い物のリーダーズ・ダイジェストのボックスではジャズ(ただし、センイチにでも出ていそうなもの)とラテン、シャンソンを、今思えばずいぶん緩い演奏で聴いた。その影響で、FENの古いジャズばかりをかける深夜番組をときどきは聴いたりもした。
 テレビの方でなら、歌謡番組もわりに見はしましたけれど、春日八郎に関しては前記の通り、記憶らしい記憶はとくにない。美空ひばりに加え、森進一も親の好みの関係から出ればよく見て、それぞれよく記憶していますし、この二人のはLPも何枚かはあったように憶えています。
 そういえば、戦前、戦中のはやり唄は大半、この時期におぼえたものなのですね。小遣いを姉と出し合って父にと買った──当時大評判だった──森進一の『影を慕いて』と、受けたので翌年また贈ってみた『無情の夢』を横から聞くうちに、妙に気に入って、というようなわけででしたけど、そのうちかなりのものは、歌える程度にはおぼえた。すねた夜風が邪魔をすると口ずさんでは、
「ん? 今の小節なんだか違うわよ」
 母に指摘されて、慌ててひばりのレコードで確認をして、などというようにして。
 ちなみに、右のアルバムの発売時期は、'68年と9年。
 少し目先を変えて、と選んでみた青江三奈の『さすらいの唄』が'70年。
 今にして思えば、同じ年には、春日八郎と三橋美智也が持ち歌を交換した大名盤、『黄金の歌声』の一と二が出ている。三橋美智也と再び組んでの『古賀メロディーを歌う』が翌'71年、二枚組のこれも名盤、『昭和の艶歌』もまた同年のアルバムですから、ニアミスだった、
(惜しかった……)
 と思わずにはいられません。なにしろ、'60年代半ば頃から'70年代半ばまでの声は、「パイライトがキラキラッ!」もいいところ、なのでしたから。逸れずに衝突していれば、七一年、七二年のリサイタルにも私は行けていたのかもしれない。しみじみ、惜しい。
 でもまあ、'70年といえば安保の年で、よど号ハイジャックが起きた年。時の運輸政務次官、山村進次郎が乗客たちの身代わりに人質となり──などという経緯がテレビで派手に報道されたような年でもありました。
 同次官がたまたま後援会会長であった縁からか、春日八郎はこのとき、『身代り新治郎』と題する歌を歌っている。歌そのものを聞いた記憶こそとくにないものの、今回タイトルを見て、
(ああ、そういえば)
 と思ったことからしてみると、その一件自体は知っている。当時の私の反応は、けっ、ナンダソレ、みたいなものだったでしょう、おそらくは。同じ年には自民党からの参議院選出馬騒動も起きている。これも、ああ、そういえばの類い、当然ナンダソレの類いであったでしょう。
 その年と翌'71年には彼は二枚の軍歌アルバムを出してもいます。ネットで見かけた、軍服姿(それも数種)のジャケットにも既視感はある。どこかで目にはしたという話なのでしょうが、軍も軍歌も、軍服でのコスプレも私は「苦手なんだよ」
 不覚の理由の、少なくともいくぶんかはこのあたりにあ
ったかも、という気もしてきますけれども、こうしてみると、知ってるんですね、じつはリアルタイムでも。

春日八郎マイ・ベスト盤
2017.3.25記

 謎の追想の件は一旦おくとして。
 年が改まっていくらか経つ時分には、結局は買った『昭和歌謡を歌う』以下、数枚のCDをすでに入手していた。これもすでにほぼできていたスタンダード・カバー曲のリスト中から、
(是非聞きたいのに手許にはない)
という歌をチェックして収録CD、または、レコードのタイトルをヤフオクに登録。安く出れば落札してあるものはそのまま、あるものはデジタル化してとりこみ、なるべくノイズもとって──などという日々がさらにしばらくは続いたのでした。
 無理にはいいかなあ、という気もする何曲かを除いては、ほぼ手許に揃ったのが桜の蕾もふくらみ出した三月の半ば。この頃までには、『春日八郎大全集 歌こそ我が生命』もやや訳あり品(Disk20の欠品に加え、付属本のカバーに破れ)を安価にて入手済みです。
 安く買えるのは大いに嬉しい。でも、もっと状態のいいものがもし安いままで終了したら、たぶん、あんまり嬉しくはない。
(人気がないみたいじゃない? それじゃ)
 思うあたりはすでにしてファンの心境なんですが、もう、疾うに相手がいない分、ある意味気が楽でいい。参議院選に今度こそほんとうに出て、なんていう事態は決して出来しない、声が衰えたのではとか気を揉む必要だってないのですからね?
 ──で、揃うものが揃えばさっそく編集。といったって、じつは、待ちきれずにある程度が揃えば一枚、また揃えば一枚とマイCDを作り出していて、オリジナル曲では一枚、カバー曲ではなんと五枚と、都合六枚がもうできている。
 聴きたい曲だけを、聴きたい順序で聴きたい。マイ詩CD作成の動機の一つはそれで、軍歌のみならず、武張った歌はなべて好きじゃない。立派過ぎる歌も苦手で、長崎以外の〝女〟シリーズも、女歌も抒情歌も、ストレートに人生を語った歌も私はあまり好きじゃない。声、アレンジを含めて時代が急に飛ぶのも、似過ぎた曲が続くのもどうも、等々。
 でも、右のわがままな好みの問題以上に編集する作業自体、大変楽しい。
 ただの編年ではつまらないので、基本、曲から曲への移行がスムーズであること、でもときどきは、
「話変わって……」
 みたいでもあること。緩急を含め、曲調にある程度は変化をつけること。つまり流れがよく、山らしきものも大小まあ二ヶ所ほどはあって、八〇分を通しで聴いていて心地良いこと。
 その辺を基準に配置していく作業って、歌集の編纂にも近いのではないか? とときどき思います。前後との関係で歌の色合いが変わったものに見えてくるとかいうのもそう。名曲の名唱ばかりへたに並べればむしろ相殺とかいうのもそうで、〝地の歌〟みたいなものもだからいるわけです。出来はいいけれど、主張がそう強くなく、リズム、歌詞の意味その他の点でなだらかに前後をつないでくれそうな歌。ただそうすると、もっといい歌が選に漏れるということにもなって取捨は難しく、その分、おもしろい。当然、もともとの曲の数があればあるほど作りやすい。
 やはり、ここは、ほぼ揃ったところであらためて──ということで、カバー曲は上記の五枚の中から絞りに絞って一枚、オリジナル曲は大全集から新たに加えて二枚分をなんとか選び出し、ウォークマンに入れて聴いては、
(この部分のつなぎがちょっとねえ……)
 と曲順を変えたり、曲自体を入れ替えてもみたり。
 試行錯誤を繰り返した結果、完成したのが以下の三枚、計、六九曲となるマイ・ベスト盤でした。


〈別れの波止場〉
1.あん時ゃどしゃ降り
('55/'69)2.赤いランプの終列車('52/'69)3.俺は一人ぽっち('60)4.月の嫁入り舟('56/'69)5.博多ながし('54/'72)6.トチチリ流し('56/'72)7.雨降る街角('53/'69) 8.浮草の宿('56/'70)9.裏町夜曲('54/'70)10.どしゃ降り人生('73)11.苦手なんだよ('57/'70)12.別れの波止場('56/'69) 13.ごめんョかんべんナ('57/'69) 14.長崎の女('63/'69) 15.山の吊橋('59/'69)16.瓢箪ブギ('54/'70)17.青い月夜だ('54/'72)18.チャルメラ人生('56/'76)19.駅裏の夜(?)20.流転の夜('55/'72)21.泣き虫人生('55/'76)22.俺と影法師('56/'70)23.東京の蟻('59/'75)

〈東京波止場〉
1.下町坂町泣ける町
('61)2.北国の駅('65)3.街の燈台('53/'69)4.居酒屋('58/'70)5.東京ながし('64)6.利根の恋唄('65)7.別れの一本杉('55/'69) 8.三味線海峡('62)9.無情の旅('66)10.さすらいのギター(?)11.ギター流して三年目('66)12.未練酒場(?)13.港の酒場('63)14.東京波止場('67)15.毎度おなじみ流し唄('65)16.波止場で待ちな('66)17.相馬恋しや('66) 18.熱海の雨('66)19.別れ酒('69)20.冷たい男の詩('72)21.名もない女の詩('78)22.流れ舟('70)

〈港に赤い灯がともる〉
1.女の階級
('36/'71)2.目ン無い千鳥('40/'73)3.勘太郎月夜唄('43/'73)4.パラオ恋しや('41/?)5.民謡酒場('58/'70)6.俺ら炭坑夫('57/'70)7.港のエトランゼ('53/?)8.男の純情('36/'71)9.満州里小唄('41/'71)10.綏芬河小唄('34/'71)11.君は海鳥渡り鳥('55/'70)12.かえりの港('55/'73)13.男の涙('49/'77)14.酒は涙か溜息か('31/?)15.急げ幌馬車('34/'71)16.おさげと花と地蔵さんと('57/'70)17.江差恋しや('56/'70)18.船は港にいつ帰る('51/'77)19.港に赤い灯がともる('47/?)20.上海ブルース('39/'71)21.夜霧のブルース('47/'71)22.かりそめの恋('49/'77)23.マロニエの木陰('37/'77)24.東京の花売娘('45/'73)

*括弧内は、曲のオリジナル盤の発売年、スラッシュのあとの数字は、収録アルバム発売時期から推定した録音の年。ただし、〈別れの波止場〉の19は、未発表曲を集めた『秘蔵愛唱曲集』に収録の曲、また、〈東京波止場〉の10、12は録音時期が、〈港に赤い灯がともる〉の4、7、14、19は収録アルバムそのものが不明のもの)。

 右のような事情から、必ずしも好きなものを上から順にという選曲にはなっていません。
「うまく収まる場所がない」
 という理由で泣き泣き落とした曲も、偏った趣味のおかげで漏れた名唱、名曲もかなりあるのですけれども、少なくとも編年で、あるいは、ただテーマ別で並べたCDよりは聴いていて楽しいのじゃないかしらと思っています。ま、手前味噌ですが。


黄金の季節、黄金の声
2017.4.2記

 できることなら、選んだ一曲ずつについて音楽的な考察などをしてみたい。みたいとは思うのですが、残念ながら、ハバネラとタンゴの違いもよくわからない。だけではなくて、私は楽譜もそうちゃんとは読めません。
 現に、お気に入りの『満州里小唄』にしても、元唄の『雪の満州里』と節が二ヶ所違うことまではわかっても、どう違いますと譜では言えない。たとえば、歌い出しの「積もる吹雪に/暮れゆく町よ」の「暮れゆく」は、『満州里小唄』の譜面にはドドレミー、とあるわけなんですが、
(元のでは、えーと、ここ、半音とかつくのかな? え、つかない?)
 ディック・ミネの震えるような声を聞きつつ悩んでいるうちに、ジャーン、とシャッターが頭の中に下りてくるという体たらく。ちなみに音源二種を送って、この箇所はと聞いてみた──バンドではキーボードとボーカル担当の──知人によれば、
「私にはACDEに聞こえるけど? なにもつかない」
 つまり、階名に直して言えばただのラドレミーだということなのでした。
(言われてみれば、たしかにそのような気も……)。

 見ての通り、波止場シリーズ・一の〈別れの波止場〉はごく月並みなラインナップで、これに『別れの一本杉』と『お富さん』を足し、さらに『居酒屋』『長良川旅情』『ロザリオの島』のうちから一、二を足せば、キング・レコードから毎年出るベスト盤とそう変わらない。
 これは大全集入手前に組んでいたものをベースにしたせい。この際だから、全部どがじゃがに一度してから組み直す、もとのを生かす。二択でしばらく迷ったあげく、こちらはほぼそのままでということにして、二曲(『お富さん』『波止場で待ちな』)を外し、代わりに二曲(『俺は一人ぽっち』『どしゃ降り人生』)を足した。足し引きをした結果曲順も変化したというだけの話で、とくにここで書くほどのことはありません。
 ひょっとしてまた、強制的追想が起きてくれないものでもない。引金となるらしいナニモノカが擦り減らないように、もうしばらくは寝かせておきたい。そうも思うので、今繰り返して聴いているのはもっぱらカバー曲の方のベストと〈東京波止場〉──というわけで、ここでもその二枚についてだけごちゃごちゃと少し書きます。
 通しで大全集を聴いてみた結果、まず判明したことは、好みに一番合うのは'60年代半ばの声ということ。これまたごく月並みな好みなんですが、ネットをいろいろ見ると、春日八郎の声がいいのは、「初期の五年のみに限る」(竹木貝石『私のナツメロ物語』)と断言する人だっている。デビュー以来の熱心なファンだとのことで、
(懐かしさを基準にした結果?)
 そうも初めは思ってみたものの、読めば、細部までをよくよく聴き込んでもいる人で、これはやはりそれぞれの好みというもの。たしかに、初期の五年とそのあとでは彼の声は色が違う。そして私自身の好みには、そこからさらに少し経った時分の声、'60年代中期の声がよく合う。この時期の、ほぼどの歌での声も私の耳にはじつにゴージャスに響くのですね。
「悲しいほど美しい声であった」というのはこのことかと思うような高音、切れまくる小節。中、低音部は響きを前よりも増し、のちにはやや減る軽み、さらに減る適度のはしたなさも曲によればあって、もう、すべての札が彼の手のうちには揃い、みたいな感じ。〝黄金の声〟と謳われた名優、サラ・ベルナールのごとく、ただのメニューを詞にして歌っても聴く人を泣かせかねない。あのアルバム・タイトルもそこからの連想かしら、と思うぐらいであるにもかかわらず、ヒットと呼べるほどのヒットの最後が'63年(『長崎の女』)、せいぜい'64年(『ロザリオの島』)までというのはなにごとか。 
 '67年以降についてはまだわかります。時代の嗜好はグループ・サウンズにシフトしているし、
演歌とのちには呼ばれるようなものだけを見ても、森進一、青江三奈、クールファイブに藤圭子とこれまでにはなかったタイプの若手、あ、新しいと感じさせる曲調の歌が出揃い、ここに割って入れる新曲をというのはかなりの難題。春日八郎のこの年の『東京波止場』、集のタイトルにもしているぐらいのことで、相当好きですけどね。
 '65年もまたべつの意味でわかる気がする。この年はなにしろ、『兄弟仁義』『涙の連絡船』『函館の女』と演歌系の重量級ヒットがもう目白押し。佳曲だとは思う『北国の駅』も、『利根の恋唄』も『毎度おなじみ流し唄』もここに立ち交じってのヒットに、というのには線がちょっと細い。
 惜しいなあ、と思うのは翌'66年で、個人的には、この年出た歌には好きなものが結構多く、集中にも五曲(『熱海の雨』『ギター流して三年目』『無情の旅』『相馬恋しや』に『波止場で待ちな』)を入れています。ただし、曲自体がどれだけいいものか? と聞かれれば、彼のこの時期の声と節回しがやや好き過ぎて、判断にはそう自信が持てません。
 緋毛氈の上でお茶を点てつつ、
「あーあーあ、きょおおとお、ごふくのぉ、うつくしさぁ(原文ママ)」
 などという「字あまりの詞」に、わりにどうでもいい(らしい)メロディーで歌うひばりのCMについて、
「ほかの人が出てきて、これを歌ってお茶などたてたりしたら、いやになってしまうけれど、ひばりならよろしい」
 武田百合子が書いたようなことが──とまではまあいいませんけれども、ヒットする、しないという観点から見れば、どれも、なにかが微妙に足りない気がしなくもない。題がなんだかなあだとか、詞が今一ではだとか、もう五年前に出ていたらとか、まあいろいろと。
  ムード歌謡風、'50年代以来のおなじみの路線、股旅物、新民謡にラテン調。目先を変えて試してはみているだけに、どれか一曲がせめて、小ヒットぐらいしていたのなら──と、死児の齢を数えるようなこともついついしてみたくはなるわけです。
『お富さん』の特大ヒットに一度は呪縛されかけたように、『別れの一本杉』や『長崎の女』のヒットも、いくらか違うかたちでその後の行く道を多少は狭めたのじゃないかしら、とも想像するからで、

(ここらで一つ、今までとは違うタイプのヒットが出ていたら……)
 '70年以降にも、その年齢にふさわしい代表曲を持てていたかもと、つい、無いものねだりの夢を見るという次第。
〝昭和の大名曲〟『別れの一本杉』をわざわざ少し半端な位置に置いたのは、半ばはそんな思い入れの故。半分は、普通にいい曲の中に普通に放り込んでみた方が、かえって良さが生きる気がしたからですが、この目論見が果たしてうまくいきましたかどうか?


タイトルは色川武大の名エッセイ、『唄えば天国ジャズソング』から拝借したものです。



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